「窓越しの対話」――インターネットでことばを磨く――

<4> デジタルジェネレーション

若者同士の書くメールには、口語と文語の区別など無いものが多い。語るが如く書くのが気取らぬ自己表現の作法といえる。それでも日本語の場合、丁寧語を始めとする敬語表現が死に絶えたわけではなく、時と場合を考慮して、巧みな使い分けをする書き手が多いのも確かだろう。とりわけ相手との距離を測りかねている段階で、無難な言葉遣いに腐心しなくては交信の発展継続が危ういとなれば、「どのように書くか」が問題になる。メールは手紙や葉書などの交信手段とは比較にならないほど頻繁に行き交う。従来書きことばによる交流には縁遠かった世代が「書き始めた」時代に、彼らは独特なスタイルを生み出している。メールを書くことが日常生活に組み込まれると、書かずに過ぎていく日の方が少なくなる関係上、習慣がおのずと文体を作り上げていく。ある意味では、サイバースペースをメリハリのない膨大なことばが垂れ流されるように行き交っているとも言えるし、そこでは手書きの文字文通に慣れた(アナログ)世代が真似しようとしてもとうてい太刀打ちできない自由闊達な文章が、溢れ返るように量産されているとも言える。

この「自由闊達さ」の両面価値には注意が要る。一面でそれはただの自堕落な駄文の横溢だし、見方を変えればかつて「軽薄体」などと揶揄された文章とは異質の、テンポのある「機能する言語」が日々書き続けられていることになるのだから。但し、先に述べたように頻繁にことばを交わしあっているように見える現象が、実は独白のぶつけ合いであるかも知れないところに、デジタルコミュニケーションの落とし穴もある。何を書いてもよいし幾度書いてもよい。しかしそれが送りつけられた相手の心の奥に到達するかどうかは全く別問題だとしたら、サイバースペースには情報交信過剰時代の孤独が見え隠れしている。

短信を送り合うことが日常化して惰性になれば、芽生えた「書きことばの意識化」も薄らぐ。例え数十人のメル友と片言隻語をやり取りしても、心中深い孤独は一向癒されないことくらい、若者は先刻承知だ。ただその習慣に代わる別の通信手段が出現するまで、ケイタイは進化し続けるだろうし、パソコンでのメール交信はますます不可欠の対話実行媒体として人々の生活に根を下ろしていくだろう。


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