「窓越しの対話」――インターネットでことばを磨く――

<3>デジタル交信の修辞法

インターネットに接続する人々は、国境を越え、時には言語の壁すら越え(翻訳ソフトも画像もあるのだから)、緩やかな離合集散をくり返しながら増加し続けている。ネットピープルは、それぞれに独特なデジタル文化の担い手となる。ある意味では同じ言語を共有する民族同士でも、コミュニケーション方法の違いによって意志疎通しにくい異邦人同士のように感じられるだろう。20世紀最後の一、二年に爆発的広がりを見せた携帯電話による交信は、話し言葉から文字通信、さらには画像表示へと進展した。「ケイタイ」あるいは「モバイル」、つまり「身につけて持ち運ぶ」通信機器は片手に収まるスマートさを誇る。手書き文字からキー入力への移行すら、日本語にとっては大きな変化だったのに、今や親指一本でことばが発せられ飛んでいく。その日本語は符丁のようなものである場合が多い。断片的な略語と、擬態語・擬声語、そして絵文字も含めてことばは簡略化の方向へひた走る。携帯電話からパソコンへ、またその逆の交信も頻繁に行われている中で、文字数制限のあるケイタイへは短信が要求される。パソコン同士でも総じて長いメールは敬遠される。簡潔な文体へ、手短で要領を得たメッセージを時に応じて書き分けられるかどうか、デジタルコミュニケーション時代の修辞法とでもいうものが密かに発達している。

メールが盛んにパソコンを介して交わされるようになって変化したことの一つに、日本語がこれまでになく明示性を求められるようになった事実がある。アメリカで発達したメールソフトは、当然のこととしてメッセージの「標題」を要求してくる。ソフトによっては「無題」のまま送ろうとすると、「標題無しでこのまま送信していいですか」と聞いてくる。ブランクのまま送信可能だとしても、問われれば空欄を埋めなくてはならないという気持ちになる人の方が多いだろう。その時私たちは多少なりとも自問する。「自分は何について書こうとしているのか。(あるいは、何について書いたのだったか。)どのような標題にすれば相手の目を引くことが出来るだろうか」と。「初めに結論あり」、という非日本語的発想が生まれても不思議ではない。

その意味でデジタル交信は、日常的に言語表現を意識化するよう私たちを促す。何となく書き始めて筆の進むまま、これといった伝達事項に固執することもなく相手の様子を尋ね、こちらの無沙汰を詫び、季節の挨拶など幾つか取り混ぜて、では何卒お元気でなどと結ぶ手紙とメールは根本から異なっている。「初めに用件あり」が原則と言っても過言ではない。例えそれがただ暇だったのでどうしているかと思ってのメールでも、標題には「お元気ですか」などということばが入る。そう書いてしまうと、書き手は自分のことばに縛られる。たとえ無意識のうちに自分で定めた枠の中をぐるぐると回ったとしても、別件はまた別便にてということにするか、「別件」と断りを入れてから段落を改めて、次なる話題に移ろうとしているのに気付く。ビジネスメールは別にして、私的メールの書き方には、伝統的な手紙文ほどはっきりとした定型が出来上がっているわけではないのに、画面が書き手に標題への固執を促しているとも言える。書き手は常に目の前に自分の文章を表示しながらキーを打つので、同時に読み手の役割も果たすことになる。自分の書いたものが相手の目にどう映るかを想像しながら書くことは、ことばを意識化する第一歩と言えるだろう。如何様にも編集できる画面上の文字は、一度書いたら容易く消せない手書き文字とは比べものにならない手軽さを持つと同時に、書き直せるのだから気に入らなければいくらでも修正したいという欲求を掻き立てる。画面上の均質なフォントは没個性的だからこそ、書き手が内容と文体で自己主張せざるを得ない「仕組み」もそこには存在している。


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