初出 「図書新聞」3699号 2025年 8月9日 |
書評・評論 メアリー・コラム著 『人生と夢と』
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書評・評論 (多田稔 監訳 三神弘子 小林広直 訳) 2025年4月7日発行 A5版720頁 本体7600円 幻戯書房 北田敬子 著者の名を知る人は多くあるまい。だが一旦この作品を手にして読み始めると、20世紀前半の英・米・仏・独・アイルランド等の作家たち、時代背景や多彩な人物相互のつながりの縦横無尽な記述に、たちまち引き込まれる読者が多いことは想像に難くない。これは評論家メアリー・コラム(1884-1957)の自伝であり回想録である。 アイルランドのスライゴ―に生まれたメアリー・コラムは、1914年に夫とともにアメリカに渡り、以後何度かの祖国訪問とイギリス、フランスへの滞在を交えて、生涯の大半をアメリカで過ごした。自らを「放浪者」(エグザイル)と呼ぶところは、2歳年長のジェイムズ・ジョイスと同様である。旧知のジョイス一家とコラム夫妻はパリで1930年代初めに親しく行き来していた。とりわけジョイスの娘ルチアが精神の病に苦しみ始めた時期に傍で見守り、サナトリウムへの入院に付き添ったほどである。コラム夫妻の住まいでピアノを弾きながら音楽に救いを求めるジョイスの姿は、小説の一場面と見まがうほど繊細に描かれている。ジョイスの愛読者・研究者たちにとっては興味の尽きない、生身の作家が本作には幾度も登場する。 メアリー・コラムはジョイスのことばかり書いているわけではない。むしろ彼女の最大の関心はW・B・イェイツにあった。大学生の頃ダブリンでイェイツに出会って心酔し、アイルランド文芸復興期の演劇や詩歌に魅了されたことからメアリーの文学修業は始まった。当然のことながらレディ・グレゴリー、モード・ゴンを始め、サー・ロジャー・ケイスメントなど独立運動の闘士たちとも知遇を得て、のちにイギリス政府への反逆罪で処刑されることになる数多くの仲間と関りをもった。騒乱の最盛期に国を離れたコラム夫妻は政治的には無傷のまま生涯を終えることになるが、祖国のために血を流したかつての同志たちへの哀惜の念が薄れることはない。 この作品が最も精彩を放つのは「華麗な」と言えるほどのメアリー・コラムの交遊録である。それはアイルランドの典型的な、うら悲しくも哄笑に満ちた市井の人々の暮らしとは大いに異なる。ダブリンを離れたメアリーは、知的で独立心に溢れた女性はこのような人生も辿りえたのだという一つの夢を体現している。しかも行く先々で、綺羅星の如き著名人たちの出没するサロンや、家族的な集まりへ招かれ、メアリーが遭遇した人々と刺激し合い、競い合い、かつ助け合う様子は壮観だ。興味深いことに、人を集めてもてなす女主人たちの才覚が称賛される一方で、ルーズベルト大統領夫妻がニューヨーク万博を機に、国際ペンクラブの欧州訪問団を招待したホワイトハウスでの昼食会は、その貧相な食事や冷たい対応ぶりがこっぴどくけなされ、新旧文化の違いが皮肉に問い質されている。 むろんニューヨーク、コネティカット、シカゴ、果てはハワイ、またグッゲンハイム奨学金を得て滞在したパリなどで両大戦の狭間の時代を、メアリーが評論家として生きていくことが難行であったのは言うまでもない。敢えて私生活の波乱の部分には殆ど触れず、各地で出会うジャンルを超えた才人たちとのスリリングな往来に健筆をふるうメアリーの記憶と記録には舌を巻く。とは言えメアリーが長年、貧血に悩まされ交通事故にもあい、手術や入院を繰り返したことを思えば、順風満帆の生涯を送ったとは言い難い。ただ、最期まで彼女と伴走した夫ポーリック・コラム(劇作家・文学研究者・児童文学の著者でもあった)の存在は銘記すべきだろう。自由な精神をもって独自の文筆活動に邁進するメアリーを支えたのはやはり夫ではなかったか。淡々とした筆致ながら、随所で妻を気遣うポーリックの泰然とした振舞の描写にはメアリーの信頼がうかがえる。 メアリーたちが<第三帝国>を見るために、パリからドイツの都市を旅するあたりは激動する国際情勢が臨場感を持って迫って来る。彼女はミュンヘンで初めて一少女から「ハイル・ヒットラー」と挨拶された。パリから中立国を目指して逃げ出す人々同様、メアリーたちも「不穏なヨーロッパ」を離れアメリカに帰国することを決める。サン・ラザール駅に見送りに来たジョイス夫妻との今生の別れの場面も描かれる。ジョイスは1941年にスイスで死んだ。メアリーは「ヨーロッパは自らの手で自らを破壊しようとしていた」と記している。 メアリー・コラムはヴァージニア・ウルフからの仮借ない評言をものともせず執筆を続け、評論『伝統と始祖たち―近代文学を造った諸思想―』は1938年に、『人生と夢と』は1947年に出版された。この日本語版は訳者による註・あとがきまで含めると700ページに及ぶ。正確で端正な日本語訳が読書を助け、詳細な註は更に広く深い認識へと読者を誘う。アイルランドから生み出された芳醇な言語芸術の担い手の一人に、今また新たな光が当てられたのは何という幸いだろう。 メアリー・コラム著 『人生と夢と』 |
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