初出 田崎清忠主催
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2026年 1月16日

散策思索 50

 「とりとめもなくなんとなく」

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散策思索50

 「とりとめもなくなんとなく」

北田敬子

新年を迎えると年頭の挨拶がしてみたくなる。相手は誰でも、太陽に向かって、蒼天を仰いで、青松にでもいい、「今年もどうぞよろしく」と。「よろしく」とはどのような意味なのか判然としないが、一切まとめて「どうか良きにお計らいくださいますようお願い申し上げます」くらいの他力本願も極まった言葉だ。そういえば初詣に行く人々は、神道・仏教と関係なく神殿・仏殿の前でいくばくかを賽銭箱に投げ入れて拝礼する。しばし首を垂れて神妙になにやら願い事を唱え、柏手を打ったり手をすり合わせたりしつつ列の次の人に場所を譲る。どんなに混んでいても、神前や仏前で先を争って混乱が起きるためしはまずない。皆等しく善男善女になっている。

それにしても神社仏閣はこの国に数限りなく存在するような気がする。大勢が詰めかける有名どころのみならず、気を付けて探さなくては名前も分からないような小さなお社が各地にある。私の住む東京の西郊にも無人の神社がいくつもある。混雑を避けてそのような場所ばかり訪ね歩いているからなのだろう、私は今年もう三か所の無人稲荷にお参りをした。どんな小さなお社にも鳥居はある。余り小さくて鳥居が神殿と直角に立っているものさえある。また、お稲荷さんには狐が赤い前垂れをかけて左右に鎮座している。狛犬が座っている神社の方が多そうだけれども。人はいなくても賽銭箱は必ずある。浄財を回収に来る人がきっといるはずだ。いつやって来るのだろう。100円玉ひとつでどんなご利益があるのか知る由もないが、正月がかき入れ時であることは間違いない。

研究熱心な人ならこのあたりで「廃仏毀釈」について調べ、神道と仏教のせめぎ合いや国家神道の興りなどについて論じるのだろう。真剣に取り組んだら抜き差しならぬ深みへはまりそうだ。去年の夏、たまたま九段坂を歩いていたとき何気なく靖国神社に立ち寄ってみた。巨大な石造の鳥居に圧倒された。出征兵士を見送る家族の彫像には胸が塞がれた。その点、湯島天神や根津神社の境内は親しみやすい。節分やつつじ祭りの頃行こうものなら、大変な賑わいで大イベントの会場と化している。全国各地にある神社の鎮守の森が民衆の緊急避難所の役目を果たしているのは防災上も理にかなっている。とりわけ都会では神社がそこだけ木立に囲まれて鬱蒼としいることに、いつ見ても感心させられる。維持管理には大変な経費が必要であるに違いない。昨今明治神宮外苑の再開発をめぐって論争が起きていることは広く知られている。銀杏並木の一部伐採や施設移転・新施設建築などに違和感を覚える人々から抗議の声が上がっている。ミュージシャン・故坂本龍一が異を唱えたことを記憶する人々も多いに違いない。鎮守の森は原生林ではない。外苑は人の手で植えられた木々が100年かけて繁った末の緑陰だ。だがその恩恵を受けてきた人々には天与の領域と認識されるようになっていたのではなかろうか。

奈良では春日大社に詣でた。朱塗りの回廊に灯籠がずらりと並ぶ光景には色彩の魔力があった。大仏殿を擁する東大寺と隣り合うように山懐に収まる春日神社は永年、数多の参拝者を迎え入れてきたのだろう。別の時には伊勢神宮にも行った。広大な敷地に延々と続く参道は夕刻まで参拝者の途絶えることが無く、足元の覚束ない人々には難行だろう。だが五十鈴川の清冽な流れとともに、旅人を待ち構える食事処や土産物屋の盛況ぶりから、お伊勢参りは神事であり娯楽でもあったことが容易に察せられる。私は旅する先々で神社をめぐり、御朱印をいただくことにしている。ご利益を期するというよりは旅の記念に。若者たちの好むスタンプラリーのようなものである。

そのようにして、これまでに訪ね歩いた神社仏閣の数は決して少なくはない。しかし、それらが私自身の宗教心と如何ほど結びついているかを問うと、なんとも曖昧な思いにとらわれる。嘗て姪の一人が明治神宮で結婚式を挙げた。白無垢を着て神前に進み出る姿を前にして、ある種の感慨に捉えられたのは確かだ。参会者全員が境内で記念撮影に臨んだ時、神社を訪れていた内外からの参拝客が、花嫁姿の姪に従って行列して歩くわれらを熱心に眺めていた。そうだ、神社は冠婚葬祭の場でありコスチュームを着て参列する者たちにくっきりした役割を与える場でもある。今では信仰と関わりなくても許される「システム」としての施設になっているのだった。

とすると、初詣に地元の氏神様を参拝することはそれほど欺瞞的ではないのかもしれない。習慣とか、習俗とか言えば当たっているだろうか。信仰心を試すような踏み絵はどこにもない。一年に一度だけ神道の俄か信者になって、神殿に首を垂れる。全く首を垂れる機会を持たないより、いくらか神妙と言えるかもしれない。ただ、その曖昧な信仰心が何者かに利用され、総動員されることがあったなら恐ろしい。別の信仰を持つ者(あるいは神道への帰依を拒む者)さえも不本意のまま神社に「合祀」されることへの拒否が、靖国神社への閣僚参拝すなわち国家の一宗教への関与を批判する根拠となる。初詣と靖国は同列に論じられるものではない。しかしどこかでなにかが繋がるかもしれないことを明晰に見分けていく必要はあるだろう。

正月三が日首都圏は帰省する人たちが出払ってしまう分、いつもより空いている。各地での積雪がもたらす過酷な労働や、幹線道路の渋滞、鉄道路線の混雑などとは裏腹に、関東地方は例年正月晴れに恵まれる。ぶらぶらと、てくてくと歩きながらとりとめもなくなんとなく、あれこれに思いを馳せてみた。目の前で爆撃が起こらないことを平和というのか。食べ物や水が不足しないことを豊かさというのか。その安寧を何に向けて感謝すればよいのか。せめて目に見えないものへの想像力を絶やすまい。信仰は持っていなくても。

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