初出 田崎清忠主催
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2025年 8月9日

散策思索 46

 「ひまわり畑にて」

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散策思索46

 「ひまわり畑にて」

北田敬子

ここ数年、日本の夏の暑さは度を越している。盛夏の天気予報を見ていると、38℃を超え40℃に届こうかという場所が連日何か所もある。これは「異常気象」と呼びならわされ、「地球温暖化」の結果と説明されているけれど、いつしかこの暑さが夏の標準になるのではないかと私は恐れる。人類が無軌道に二酸化炭素を排出し続け、一向にその流れを止めることができないのが原因だというのが「定説」だ。環境保護活動家ならずとも、安閑としている場合ではなかろうという気持ちになってくる。

そんな不安をしかつめらしく呟きつつ、実際には冷房をガンガンかけて環境に負荷をかけているのが自分のやっていることだと自覚しながら、「でも、熱中症にはなりたくないから」と言い訳している。一日中蟄居しているわけにもいかないので、あれやこれやの用事で外出するたびに全身を襲う熱気たるや燃え盛る焚火に囲まれているようだ。私は道行く人をしげしげと眺める。皆はどうやってこの暑さをしのいでいるのだろう?

日傘をさすのは女性に限らなくなってきた。男性が大きな日傘をさしているのを見ると、「おぉ、ダンディ!」と頼もしくなる。たった一人分の日陰をこしらえて歩くという行為はあまりにも小さな抵抗のような気もするが、陰があるかないかで炎帝の威力は大いに異なる。本物の木陰に入ればなおさら差は歴然とする。街路樹の効用を今ほど実感することはない。また、若い女性がハンディファン(携帯型扇風機)を持ち歩いている姿もよく見かける。要するに一人分の、しかも顔面に限った効能の、風を起こす機械というものはこれまた「私さえ涼しければそれでよい」という究極の利己主義のように見えるものの、考えてみれば旧来の団扇や扇子を電動にしただけのことで、風情など捨てた姿だと思えば見かけはどうでもよくなる。但し、ハンディファンは35℃以上になると熱風を送るだけで、下手をすると熱中症の引き金にもなり得るという。

今昔の比較で言えば、昔は手ぬぐいやタオルを首に巻いていくらかでも暑さをしのいだ工夫を今は冷却ネッククーラーが代行する。冷却材を封入した「冷やして使う」ネックリングもあれば、電動の首掛け扇風機と冷却プレートのコンビネーション(最強ネッククーラー)と言われるものもある。どこまでも科学技術で暑さに対抗しようという人々の情熱は熱い!だが、一方では帽子に代わって天然素材で頭の上に空気の通り道を確保した「編み笠」が復権している。お遍路さんや阿波踊りの踊り手が被るものばかりでなく、多種類の菅や竹で編んだ笠が通販サイトでも売られている。未だ街中で見かけることは滅多にないけれど、帽子より合理的な日除けかもしれない。

さらに、個人冷房そのものとして登場したのが空調冷風ジャケットだろう。建築現場や屋外で作業する人々がまるで冬場のダウンジャケットさながらの膨らんだ上着を着ているのを見かけるようになった。今のところ男性の着用が専らながら、女性の作業員が着ている場合もある。そのうち仕事用だけではないファッション性の高いものがお目見えするのも時間の問題かもしれない。事程左様に、人間は自然の驚異的な暑さにさまざまな形で自衛を試みている。問題の根本を絶つのではなく、現象への対抗手段として。

けれども暑さにひしゃげているばかりでは情けない。いずれ日は陰り、寒さに震える季節が訪れることは必定。夏ならではの楽しみを見つけたいものだ。遠出がままならないなら近くで何か良いことはないだろうかと思案していたら、隣町で『ひまわりフェスティバル』があることに気付いた。首都圏と言っても、建て込んだ街並みや排気ガスもうもうの道路ばかりではない。都市の周辺地域には農地が頑張ってるのも事実だ。メガロポリス東京への貴重な農作物の供給源となる街の一つ、東京都清瀬市。ここには牧場もあり、2400uの農地に約10万本のひまわりが植えられた畑もある。ひまわりは緑肥として栽培され、同じ畑で秋から春にかけては牛の飼料となる牧草やオオムギが栽培されている。近隣のファームが協力して盛夏のほんの10日間ほどひまわり畑を一般に公開してくれる。この催しは既に15回目を迎え、近隣の人たちはこぞってひまわりを観に行く。私も嘗て自転車で行ったことを思い出したのだった。流石にこの度は電車とバスにした。


暑かった。畑に木陰はない。広く、広く、ひまわりが太陽を一身に浴びているばかりだ。茎は人の背丈よりも高く伸び、大きな丸い花(外側に舌状花という花びら、中心部分に筒状花という花の集合体)は咲き始めだったこともあり、快晴の空に思い切り面を向けている。何という逞しさだろう。日傘に隠れて歩く自分がちっぽけに感じられる。ひまわりは暑さを最大限に享受する植物だ。一斉に揺れる様は壮観と言う外ない。

 

しかし、花の盛りの日々は短ひまわりは咲ききると一斉に項垂れていとも哀れな姿を晒す。祭りの日にはその短い命の最良の瞬間を謳歌し、夏の寵児の面目躍如だった。一粒の種から育ち、1500〜3000個もの種を生む一本のひまわりの花は豪勢だ。ひまわり畑で暑さを呪う人はいない。青空に映えるひまわりを見物客が挙って撮影する。私も何枚も写真を撮るうち、スマホはあっという間にヒートアップしてしまった。「写真なんか撮ってる場合ですか?実物をとくとご覧なさい」とでも言われたようだ。畑の片隅には、農地で採れたてのトウモロコシが積み上げられていた。小鉢に植えられた小さなひまわりの花。そして余りの暑さに音を上げた人のためには、清瀬市役所の屋上で採取されたハチミツ入りの「きよハチサイダー」が氷水に漬けて売られていた。私も一本買ってのどを潤したのは言うまでもない。実に素朴なフェスティバルだった。どんな仕掛けにも勝るひまわりの群れに訪問者たちは圧倒され、感嘆していた。私も魅了された。

暑さから逃れる算段に憂き身をやつすのも一つ、夏の花の中で暑さを受け止めるのも一つ。いずれも一瞬の煌めきに過ぎない。ひまわり畑の中を歩いていると、ヘンリー・マンシーニの音楽が胸を過る。ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニ主演の映画『ひまわり』が公開されてから半世紀が過ぎ、ウクライナで撮影されたひまわり畑のシーンは戦争の残酷さの象徴として今に伝わる。依然として膠着状態の続く現代の戦争を思いながら強烈な日差しの元、私は畑を彷徨った。この先も平和な「ひまわりフェスティバル」が続くことを願う。だが、手をこまねいているばかりではそれも危うい。第二次世界大戦から80年が経過し、戦争の実際を知る人たちは減っていく。後継世代に遺されたのが灼熱地獄だけというのではあまりにも無念だ。目先の快適さを追うあまり、営々と築かれた文化や歴史を踏みにじることだけはしたくない。

とかくするうち立秋とは、目くるめく季節の巡りは人の思惑を遥かに超えているようだ。2025年8月7日


写真撮影 北田敬子
参考資料
「第十五回 清瀬ひまわりフェスティバル」(主催: 清瀬市、清瀬市農ある風景を守る会)のチラシ
清瀬市ホームページ / ひまわり畑動画サイト

 

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