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2025年 5月8日

散策思索 44

「サクランボの実る頃」

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散策思索44

「サクランボの実る頃」

北田敬子

先週末近所の川辺を歩いていると、河津桜の葉陰にサクランボがたくさん実っているのに気付いた。早咲きの木は実のなるのも早いものだと感心して光を浴びるサクランボを見上げた。4月から5月へ、満開の桜は瞬く間に姿を消し、緑溢れる季節になった。

その朝私は美容院へ行き、サッパリした気分で街に出た。スマホが立て続けに鳴った。妹たちや娘からメッセージが届いていた。母死すと。訃報はいつも唐突に訪れる。まさかと否定しようとして叶うわけもなく、喧騒に巻き込まれるのが常だ。これまでに何度もそういうことはあった。予想していたはずの知らせが、今届くかという無念を胸に押し込め、私は母の元へ急いだ。

一週間ほど前に入院先からグループホームの施設へ退院したばかりだった。延命治療を拒んでいた母から中心静脈栄養の針を抜く段階で、医師は「栄養分も水分も補給できなければ衰弱するのみです」と私たちに告げた。「結構です」と応えて、覚悟の上搬送したはずだった。ホームへ戻ってからは病院にいた時より、母の表情は穏やかで、出来る限りの経口摂取による飲食が職員の手によって試みられていた。その穏やかな日々がどのくらい続くのかは誰にもわからなかった。

訪問した家族に微かな反応を示すこともあり、職員の人たちは「挨拶に応えてくれるし、気持ちは通じます」と言っていたので、誰もが安心していたふしはある。だが一週間で母のエネルギーストックは切れたようだ。慌てて私がホームに到着してみると、ベッドの上には能面の姥のような顔の母がいた。早朝、いつものように着替えや口内洗浄等のために職員が部屋に入ったとき、母が呼吸していないことに気付いたのだという。

それから死者を見送る一連の流れに移るはずが、ゴールデンウィーク真っ最中だったこともありいつも往診してくれていた主治医への連絡がつかず、入院先の医師も不在のため、誰が死亡診断書を書くかが決まらない。何しろ母の遺志は「献体」である。搬送予定先の大学も「死亡診断書が無ければ迎えにはいけない」とのこと。グループホームの職員が「先ず救急車を呼びましょう。それから警察です」と提案した時には呆気にとられた。亡くなっていることが明らかなのに、救急車とはこれ如何に?

救急車は直ぐに来た。救急救命士たちが手際よくAED(緊急救命装置)で心肺蘇生を試みる。電気ショックも与えられた。それは蘇生が本当に不可能かどうかを確かめるための決まった手順なのだ。最早打つ手なしと確認できたときに、救急搬送はしないと決定できる。(そんなことは一目瞭然なのではとの家族の言い分は通用しない。)救急車が退去した後、次いで地元の交番の巡査と、警察署から刑事が来た。検死の手続きに入る。

刑事にはTVドラマでしかお目にかかったことはない。私服でがっちりした体格の、そのまま山登りにでも行きそうな男性が弟にくれた名刺によれば、暴力団対策の部署にいる御仁らしい。彼は施設職員(特に第一発見者と管理責任者)、施設や病院とのコンタクトを取る家族内「キーパーソン」(母から見ると長男の妻)、その他の家族全員に次々と質問をし、私も氏名・生年月日・住所・電話番号など聞かれて刑事は全部メモした。彼が言うに、「発見から警察に連絡が入るまでに二時間半経っていますね。この空白は何故でしょうか?」と尋ねる。どうも何か事件性があるのではないかと訝しがっているようだった。

弟が小声で聞かれた最後の質問は「施設に何か不満はありませんか?」
弟は「感謝しかありません」と即答した。

その場で死亡診断書が発行されるのではないかと思っていた私たちの予想は覆された。死亡判定を出来る医師がその場にいないため、母の遺体は隣の市の警察署に搬送されることになった。(施設のある市には警察署が無い!)検死が終わったら連絡するので待機しているようにと指示され、白い袋に詰められた母の遺体がストレッチャーでワゴンに乗せられて施設を後にするのを私たちは茫然と見送るしかなかった。

それからは警察署から遺体を引き取るための車を手配することや、遺体を安置する方法などについて家族で協議した。私が以前に世話になった葬儀屋に連絡すると、心得たもので「献体先の大学がすぐ引き取りに来ない場合は、当社の冷暗所に安置する方法もあります。遺体にドライアイスは使わないでください」などのアドバイス。葬儀ビジネスということばが頭をよぎる。結局夜も更けて8時頃に警察から検死終了の知らせがあり、弟は葬儀屋と警察署で待ち合せて母を引き取って来た。葬儀屋は母に浴衣を着せてくれていた。

翌日、解剖学教室から差し向けられた別の葬儀屋社員が一人で棺を持ってやってきた。母が自ら用意した紋付の着物で覆い、花束を添えて亡骸を入棺した。グループホームの入居者全員、職員、家族一同40名あまりが見送る中、母を乗せたワゴン車は角を曲がって行ってしまった。通夜も葬式もない最期だった。この先、一年かかるか二年かかるか分からないが、解剖が終わったら母の遺骨は家族のもとに戻ってくる予定だ。それが母の遺言だったので、私たちは従った。「死亡診断書には老衰と書いてあったよ」と弟が言った。

数日後川辺の道を歩いてみると鳥たちが食べたのか、サクランボはもうあまり残っていなかった。おそらく、これから毎年サクランボの実る頃になると、私は母の最期の日を思い出すのだろう。命を燃やしきっていった母。学生たちよ、どうかしっかり実習をしておくれ!

【参考】散策思索43 「桜に思う」

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