初出 田崎清忠主催
Writers Studios
2023年 8月29日

散策思索 34

「ピンクの牙城」
映画Barbieをめぐって

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散策思索34  

「ピンクの牙城」
映画Barbieをめぐって

                                             北田敬子

スタンレー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』(1968)を見たことがある人なら、そのオープニングシーンで流れるリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」の壮大な音楽を思い出すことができるだろう。初めてあの映画を観た時の胸の高鳴りは、これからただならぬ時代が始まるという予感だった。映画が封切られた頃、21世紀は遠い未来の彼方にあった。宇宙への旅は想像世界の夢だった。

2023年夏に封切られた映画Barbieは、類人猿ならぬ人間の少女たちが人形を振り上げて地面にたたきつけるシーンで始まる。その背後に流れる音楽は「ツァラトゥストラ」だ。『2001年宇宙の旅』のパロディーに他ならない。『2001年』のオープニングシーンを知らなければここでのインパクトは半減するだろう。何故少女たちは大切にしていたはずの人形を全力でぶち壊すのか?古臭い人形を放り投げた後、彼女たちが発見するのは巨大な脚だ。屹立するすべすべした見事な脚。視線の先には黒と白のストライプの水着に身を包む完璧なボディラインの美女―Barbie(1959年発売・初代)が!人形は少女たちが母親役になって愛しむ存在から、かくありたいと憧れるロールモデルに変身したのだった。

笑える。「何だ、これは?」「これから何が始まるのだろう?」という期待感は『2001年』を見た時に勝るとも劣らない。そしてその期待は裏切られずに最後まで疾走する。Barbieを女子向けのお人形映画だろうと高をくくっていた人は吹っ飛ばされること間違いなし。むしろこれは見る者を人形世界と人間世界の融通無碍な行き来を通じて、「新たな宇宙の旅」へと誘うダイナミックな物語だ。

ところでバービー人形の販売元アメリカ「マテル(Mattel)社」の本家本元サイトへ飛べば、”You Can Be Anything”を標榜する人形たちを見ることができる。女の子(だって)望めばなんにでもなれる(はずだ)というメッセージの元、宇宙飛行士・医師・科学者・政治家・アスリート、プログラマー、起業家、写真家、映画監督、パティシエ、フローリスト、メイクアップアーティスト等々、50余りの職種の人形が満載されている。「多様性」が前提(the most diverse doll line)だから、肌の色、髪の毛の色、障碍の有無などにも配慮が行き渡っていて、車椅子に座る人形は元より、金属製の義肢装着の人形もある。最新ドールの一つに「ダウン症」の人形もあった。よく見ると体型(プロポーション)と表情、足元の設定が典型的なバービーとは少し違う。様々なコスチューム、バービーハウスは元より、ありとあらゆる関連グッズの網羅された同社のサイトは正に夢の国。このマテル社と連携したBarbieでは全て実写の人間がドラマを演じる。映画はパペットショーではない。

Barbieたちの住む世界はどこもかしこもピンクだらけ。何にでもなれる女性(Barbieたち)が支配し、しかも全てはプラスティックで出来ており、陰影も汚濁もない。毎日毎晩パーティー続きで屈託がない―はずだったところへ、Margot Robbie演ずる「プロトタイプ(原型・代表)」のBarbieが突然「死ぬって考えたことある?」と口走ったためにBarbie Landの均衡に歪みが生じ、言い出しっぺの彼女は人間界へ行って歪みを生み出した元凶を発見して正すというミッションを与えられる。(つまり人間の持ち主の誰かがBarbie人形に剣呑な振る舞いをしたことが人形世界の秩序を乱したという想定で話は進む。)

Barbie Landというユートピアを出たBarbieとボーイフレンド役のKenが人間界で巻き起こすドタバタ劇がこの映画の中核にある。そして人間界に蔓延する男性中心の社会構造に疑義を呈するBarbieと、女性陣にやられっぱなしだったKenがBarbie Landnに持ち帰る人間界の男性社会の縮図が激突する。人間界からはプロトタイプバービー(以降、Barbieと表記)の反乱を阻止すべく「マテル社」の経営陣がBarbie Landになだれ込んで来る。さらに人間界でBarbieの不調となる原因を作った母娘がBarbieの最大の味方として応援に馳せ参じる。

Ken率いる男性の人形たち(全員の名前がKen)に洗脳されて、男性に奉仕し始めた女性達(全員の名前がBarbie)のメンタリティーを解毒してBarbie Landを復元できるかどうか、「マテル社」のCEOを始めとするリアルな男性陣を宗旨替えさせることができるかどうか、物語は一気にフェミニスト映画へと大転換する。そうか、これは女性(Greta Gerwig監督)による女性に対する支援の映画であり、男性に対する啓蒙映画だったのかと、観客は呆気にとられながら気付かされる。

そして、これはKenの覚醒の物語でもある。何しろ明るく楽しくハッピーで暗さも神経質なところも一切ない(はずの)この映画が、Barbieと共に人間界に行ってきたKenが自己認識をめぐって葛藤し始めるとき、「これはどこかで見た風景だ」と観客は思い始める。Barbieのためだけに存在し、Barbieが必要とするときにだけ彼女に奉仕し、それ以外の時は何者でもないKen。職業は「ビーチ」とはこれ如何に?海難救助員でもなく、サーフィン指導者でもなく、ただただ海岸で愉しくやっている賑やかし役。どんなに迫ってもBarbieにロマンスへの嗜好はない。(この映画の中に登場するきわどい台詞にBarbieには生殖器官なし、Kenにはあると本人たちの弁。)Barbieは生まれながらのフェミニストだが、人形である限りニュートラルな存在でいられるという前提にすぎない。KenはBarbieに自分の辛い立場を理解して受け入れてくれと懇願するも、Barbieにはその意思なし。セックスをめぐる永遠のすれ違いは宿命なのか?

しかし、Barbieは絶対的矛盾を抱えたまま人形世界に留まることはできない。「マテル社」でBarbieを最初に作ったルース・ハンドラー女史の赦しと励ましを得て彼女は人間界で生きることを選ぶ。Barbie変じてBarbaraとなった女性が最初に颯爽と出かける場所が「婦人科医」のオフィスであることは極めて象徴的な幕切れであろう。

女性が必ず人形遊びをして成長するとは限らない。男性がぬいぐるみ(という人形)を愛でる例は枚挙にいとまがない。(『クマのプーさん』のクリストファー・ロビンを見よ!)人間の比喩もしくは代替物としてヒトに寄り添ってきた人形の歴史は人類の歴史と同じくらい長いのかもしれない。「玩具」は常に子どもと共にある。だが子どもはいつか大人になる。玩具は、そして打ち捨てられた人形たちはどうなるのだろうか。それは近年進展の著しいAIと共に生きる我々の未来とも大いに関わる問いである。映画Barbieの起爆力は凄まじい。

この映画が7月中旬にアメリカで公開された直後、同時期に公開された『オッペンハイマー』(原爆の生みの親である科学者の葛藤を描くと言われる作品)と題名をかぶらせて『バーベンハイマ―』なる一般人による造語や画像が出回った。原爆犠牲者に対してあまりにも心無い表現であると日本側が映画会社に対して厳重抗議し、謝罪が行われるという事態になった。『オッペンハイマー』の方は未だ日本での公開があるのかどうか未定である。

だが、Barbieの映画そのものに罪はない。上記の件に嫌悪を抱く余りBarbieなど見るに値しないと思われる向きがあったら、アメリカのコメディ映画の持つ大らかな構えや、潤沢な資金を投じて造られた映画の贅沢な完成度、そしてキューブリック監督のみならず過去の映画へのオマージュ的なパロディーの数々や、多彩な音楽、映像美などを総合して作品を評価していただければと思う。実に興味深い力作であることは確かだ。

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