初出 田崎清忠主催
Writers Studios
2023年 8月14日

散策思索 33

「夏の呼び名」

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          散策思索33  「夏の呼び名」

                                             北田敬子

地球規模で気象の異変が起こり、2023年夏は何処でも「観測史上初の」という枕詞で語られるようになった。北米大陸での相次ぐ山火事に驚くうち、ハワイのマウイ島では(2023年8月14日現在)報じられているだけでも100名近い犠牲者を出す森林火災が発生した。自然災害のみならず警報が聴こえなかったという人災の可能性もあるという。「地上の楽園」として世界中から大勢の観光客を迎えるこの島に、予想もしない災厄が降りかかった。ウクライナ・ロシアに戦火の止む気配はなく、中東で、アフリカで、アジアで被災する人々の姿が連日報じられている。それらは必ずしも「夏のせい」ではないのだけれど、やり場のない焦燥感をぎらつく太陽に向けるほかない状況ではある。

イギリスのOxfordに滞在する友人からは「連日こちらは20℃前後で、寒いくらいです」との便りが届く。そもそも南半球は真冬だろうし、世界が同時に熱暑に喘いでいるわけではない。だが、直面する困難に人々の目が向くのは致し方ない。電気代の高騰に悩まされる一方で、熱中症予防のため昼夜クーラーをつけておくようにというお達しも出る。東アジアの島国で酷暑のど真ん中にいる民はどうしたらよいのだろう?

『碧巌録』由来の禅語として名高い「心頭滅却すれば火もまた涼し」を持ち出すなら、「暑い」「寒い」という感覚は主観的なものであり、精神のあり様ひとつで克服できるということになるのだろうか。昔日、座禅の道場で警策を持った導師からこの言葉が発せられた時、脂汗の最中にふと流れてきた一瞬の風を「涼しい」と感じた記憶はある。しかし、吹き抜けの道場が今夏ほど暑かったとは思えないし、体温を超える気温に精神論は危険だ。この言葉の神髄は気温の高低とは別のところにあるに違いない。

それでは街を飛び出して、高原や高山、森林や川辺・湖畔に行けば天然の冷気に包まれて、猛暑から逃れられるのだろうか。確かに、地上に涼しい場所がないわけはない。お盆休みを利用して海へ、山へと繰り出す人の群れを眺めていると、たとえ途上の混雑は苦行だとしても、行った先にこの暑さからの解放区があるならば試みるに如かずとエールを送りたくなる。私も子どもだった頃、夏休みと言えば臨海学校・林間学校に出かけて普段とは違う空気を吸い込み、幸福感に満たされた記憶がある。「ここではないどこか」へ出かけることに意義があるのだ。その頃は、企画してくれる教員や送り出す親たちの苦労のことなど想像もしなかった。子どもたちを事故なく無事に帰宅させるまで引率者がどれ程神経を削っていたか、今なら分かる気がする。あんな時代もあった。

ではなぜ今年の夏、私は炎暑を脱出する手立てを考えないのだろうか。有り体に言うと、「どうせ数日都会を離れたとしても、帰ってきたら元の木阿弥。よけい暑さがこたえるに違いない。いっそ別天地を知らないでいる方が幸せなのではないか」と何もしないうちから敗北宣言を出しているようなものだ。これでは炎帝の思う壺だ。とりあえずCOVID-19は2類から5類に移行した。その意味するところは厚生労働省によれば「法律に基づき行政が様々な要請・関与をしていく仕組みから、個人の選択を尊重し、国民の皆様の自主的な取組をベースとした対応に変わります」とのこと。要するに何かを行えないことに「コロナのせい」という言い訳が立たなくなったということだ。どうも私の今夏の出不精は「コロナ時代」に培われたものではないかという疑惑が湧いてきた。「行ってはいけない・動いてはいけない」という要請が「行かなくていい・動かなくていい」に変化し、ついには「行けない・動けない」にまで嵩じてきたということか。民が解放後も「惰性」でじっとしているとしたら、COVID-19(もしくはその時の政策)が必要以上に人心を蝕んだということかもしれない。

いや、経済上の理由もあるのではないか。このところの物価の値上がりは著しい。旅に出るとして、手元不如意を自覚する人間を突き動かすには相当の資金が要る。弁当代一つを取って見ても、ホイホイと気軽に出せる値段ではない。千円札の重みは変わった。その一方で先日、私のところに青森から缶入りのリンゴジュースの到来物があった。ずっしり重い箱の表には30缶入りと書いてある。嬉しい反面、「どうしよう、困った」というのが本音だった。実は昨年頂戴した缶がまだ残っているのだ。少人数の家族が迅速に賞味できる分量ではない。昨年ものを全部飲んでから今年の缶を開けるのはいつのことになるやら。その時、「そうだフードドライブに献上しよう」と思いついた。もし子ども食堂にでも回してもらえればジュースは一日で飲み干されるかもしれない。

かくて私は自転車の荷台に30缶入りダンボール箱を積んで、地元のリサイクルセンターを目指して走った。炎天下の街道に歩行者はおろか、自転車さえほとんどいない。車がビュンビュンと飛ばす傍ら、えっちらおっちら自転車をこぐのは難行だった。幸い品物はセンターであっさりと受理され、どこへともなく運ばれていくことになった。せめてもフードロスを阻むことができたと喜ぼう。再び走り出た街道は白昼、これでもかというほど暑かった。その時、私の目に「かき氷」という看板が目に入った。「こんなところに?」と一瞬目を疑うような、神社の傍らの民家の勝手口と思しき場所だ。若い女性がしゃがんで小さな黒板に【本日のサービス】という文字を書き入れている。渡りに船、地獄で仏。これを逃す手はない。

勝手口の暖簾を分けて中を覗くと「いらっしゃいませ」と涼やかな声。「かき氷を一つお願いします」と頼んだら、「どこでお召し上がりになりますか?木陰のベンチでも、座敷でも」という答。「えっ、お座敷でかき氷がいただけるのですか?」「はいどうぞ。」というわけで、私はその民家の玄関から座敷に上がった。どうやら古い家を地域のコミュニティーサロンに改造した場所のようだった。クーラーの効いた古畳の部屋の壁一面に書棚がしつらえてあり、絵本を中心に様々なジャンルの書籍が並んでいる。誰が読んでもよさそうだ。先客の3〜4人の子供たちは畳の上でカードゲームに興じている。別世界だった。やがて運ばれてきたかき氷をつつきながら、私は思いがけない読書タイムを享受した。熱暑も酷暑も消えてしまった。

かくて二つの原爆忌と終戦記念日を擁する8月はあり得ないような暑さの中、じわじわと過ぎてゆく。今年の夏は関東地方でもシマトネリコの木に大量のカブトムシが発生し、昆虫少年たちを熱狂させているという番組をTVが放映していた。夏日(25℃以上)、真夏日(30℃以上)、猛暑日(35℃以上)、酷暑日(40℃以上)、熱帯夜(25℃以上)、超熱帯夜(30℃以上)という日本気象協会の命名を睨んでいると、情緒も風情もない。それでもいつかは終わりが来るに違いない。目にはさやかに見えぬ風が吹くまで今暫し。

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