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2023年 4月12日

散策思索 31

"Ars longa, vita brevis."

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          散策思索31  "Ars longa, vita brevis."

                                              北田 敬子

今年はいち早く桜が咲き揃い、瞬く間に花吹雪となっていった。2023年3月3日に作家・大江健三郎が亡くなり、3月28日には音楽家・坂本龍一が亡くなった。大江は天寿を全うし、坂本はようやく古希を超えたばかりのところでの癌による病死だった。文学と音楽というジャンルの違いはあれ、彼らの死を悼む人々が日本国内にとどまらないところは共通している。

ここ十年あまり大江健三郎の動静を伝える記事は一向に出ず、全集の出版ばかりが報じられていたので、病床にあるのかと私は想像していた。彼は1994年のノーベル文学賞受賞をひとつのピークに、大作家としてゆるぎない地位を文学史上に確立していた。しかし社会活動家としては批判にもさらされ、この「戦後民主義者」は万人を味方につけるとは言い難かった。それでも、現実の社会や政治状況に関わり続けるという姿勢を貫いた。脳に障害を持って誕生した長男の光氏が作曲家として認められるようになったことは、大きな感動をもって読者に受け入れられてきた。私自身は、高校一年生で初期の短編小説『死者の奢り』に出会った時に、自分の中のナイーヴな文学少女が吹き飛び、言葉と切り結ぶ芸術の存在を知った。これからあらためて大江最晩年の作品群を読み、多くの神話的作品を再読しようと思う。大江健三郎が欧米や南米の古今の作家たちから得ていたインスピレーションを辿るという課題もある。難解なようでいて、キッチリと日本語を突き詰めた大江の文体に酩酊することになるはずだ。今は膨大な作品を残した作家に命の終わりはないような気がしている。

坂本龍一の多彩な音楽活動については、「テクノミュージック」の創始者と言う紋切り型の枠組みに収まらない幅広いジャンルでの鬼才ぶりが、生前から既に伝説のように語り継がれてきた。彼もまた環境問題を始め、核兵器・原子力発電、戦争と平和をめぐる発言の際立つ、行動するアーティストだった。彼はひとところに留まる存在ではなかった。そういう意味では、デビッド・ボウイ扮する英国兵に対峙する日本軍兵士役、また印象深い主旋律と共に聴き手の脳裏に刻み込まれた『戦場のメリー・クリスマス』の映画音楽ばかりを持ち出すのはお門違いも甚だしいのだが、それが坂本龍一の代表作の一つとなったことは間違いない。彼の死後幾度あの曲と映画クリップが各種のメディアで再生され続けていることか。どこまでもスタイリッシュで先端を行く坂本が、晩年白髪の碩学のような風貌でカメラの前に座り続ける姿には、鬼気迫るものがあった。彼の誕生した1952年に私も生まれた。同世代の先鋭として遥かに眺めていた人が旅立ったことに粛然とするばかりである。

二人の芸術家を遠巻きに見送った今、生と死をめぐるもう一つの物語に触れずにはいられない。

私はつい先ごろ、カズオ・イシグロの脚本で制作されたイギリス映画『生きる LIVING』(2022)と、黒澤明監督作品『生きる』(1952)を同日に観た。前者は映画館で。後者はDVD配信サーヴィスを自宅で。改めて刮目したのは、日本の1952年にはまだ「戦後」の雰囲気が漂っているということだった。女たちは赤ん坊を「ねんねこ」に包んで負ぶい、市役所だろうが買い物だろうが、どこへでも連れ廻っていた。1953年のイギリスでも、1952年の日本でも一軒の家に二世代・二所帯以上の人々が同居するのはごく一般的なことだった。『生きる』の主人公は若い女に「いいわね、課長さんのところは広くて。うちなんか何家族も一緒に暮らしてるから大変よ」と言われている。だが、階上の若夫婦と階下の父親は日英どちらも声を掛け合える距離にいながら精神的には断絶し、若夫婦は父親の家から独立する日を夢に見る。(あまつさえ父親の資産を当てにしながら。)戦災孤児や、焼け跡、バラックの家や闇市といった直接的な戦災の描写はない。急速に進む復興の中で人々は戦争の記憶から逃れ出ようとしている。

クロサワの『生きる』が名作だとは聞き及んでいたし、主演の志村喬がブランコをこぐ場面も思い出せる。しかし、私は物語の細部を再現できるほどには詳しくなかった。イシグロ版がその「リメイク」と言われても、どこがどの程度同じなのか異なるのかは分からなかった。だから敢えて、イシグロの主人公Mr. Williamsを見てからクロサワの渡辺氏に戻った。見事にストーリーはパラレルだった。日々を大過なく過ごすことだけに汲々とする市役所の課長が、自分が癌にかかって余命いくばくもないことを知ったことをきっかけに、市民の陳情する公園建設に邁進した末に果てる。彼に最後の生気を吹き込むのは奇怪な物書きの男と、役所に勤めていた溌溂とした女子事務員である。自己表現もコミュニケーションも不得手な課長は、彼女から「ミイラ」(英語版では「ゾンビ」)というあだ名をつけられ、己の生ける屍ぶりを自覚する。(同時に、生まれて初めてあだ名を頂戴したことを喜ぶ!)どちらも課長の死後に、公園建設の立役者は誰か、というトピックが、お役所仕事の内輪話として議論される。その虚しさとバカバカしさは両者共通である。それにしても、日本の1952年、イギリスの1953年には戦場で殺すか殺されるか、生きるか死ぬかではなく、個人が立ち止まって己の生と死を見つめる時代が到来していたのは確かだ。

それぞれの人間の生死が、現代のわれわれに語り掛けるものは何だろう。Mr. Williamsは子供の頃、将来はgentlemanになりたかったと言っている。映画冒頭、駅のホームで出会う同僚たちに”Good morning, gentlemen.”と挨拶するMr. Williamsは誰しも認めるgentlemanでありながら、死を前にしてそのような外見・体面の空虚さを知る。武骨な風貌から言えば、およそ紳士とは言い難い渡辺氏は誰かの規範となるような男ではない。だが二人とも職分が与える可能な限りの任務を、己の信念を貫いて死んだ。ゾンビもミイラも最期で蘇った。ささやかながら個人として充足した生を全うして。

膨大な作品を残した大江や坂本は賛辞と共に逝った。人々は彼らの不朽の名作を享受し続けるだろう。しかるにMr. Williamsや渡辺氏は誰でもない誰かだ。敢えて言うなら、Everyman。人ひとりが生きて死ぬとは、こういうことかと見る者に静かに伝える。ヒーローと呼ばれなくていいんだと。凡庸で悲痛で滑稽で愛おしい。現代ではそんな言い方すらセンチメンタルと嘲りの対象になるかもしれない。敢えてイシグロが敬愛するクロサワの作品をリメイクしたのは、そのような心情(センチメント)を忘れまいという現代人への伝言ではないか。二作は戦争で、災害で命を失う数限りない人々、病に命を奪われる人々、老いて逝く人々、すべての人に訪れる死を、生きる瞬間の輝きの下に長く記録する映画だと思う。どちらも死ぬことよりも、生きること(LIVING)の物語だ。坂本が好んだという"Ars longa, vita brevis."(芸術は永く、人生は短い。)という警句が、クロサワからもイシグロからも強い心情を通して伝わってくるように私は感じる。

 

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