初出 田崎清忠主催
Writers Studios
2023年 2月9日

散策思索 29

「動と静の間で―映画鑑賞記」

 

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          散策思索29  「動と静の間で―映画鑑賞記」

                                              北田 敬子

Iで始まる二つの対照的な国―IndiaとIreland―の映画を立て続けに観た。インド映画はRRRという、ダイナミックなエンタテインメント巨編、アイルランド映画は『イニシェリン島の精霊』(The Banshees of Inisherin)という極小の地域社会で起こる人間同士の諍いの物語である。大がかりなアクション映画と、孤島での心理劇という両極端な作品から受けた感興は、どちらも語らずにいられないほど大きかった。

RRRはとてつもなく規模の大きなドタバタ喜劇と言えばそれまでだ。大筋は大英帝国の統治に抵抗する、民衆のヒーロー二人の八面六臂の活躍物語と要約できるだろう。英国人のインド提督夫妻は徹底的な悪人に仕立て上げられている。冷血で高慢で情けを知らない。圧倒的多数の土地の民を人間とも思わず、支配の鞭を振るう。その暴虐に対してくすぶる民衆の憤怒がいつか爆発しないわけがないと、見る者は思う。しかし、いつ、だれが、どのようにして刃向かえるのか?そこに屈強の若者が登場するのは英雄譚の定石。性格も出自も異なる二人の男(ラーマとビーム)が紆余曲折の末にタッグマッチを組み、ほぼ素手で「巨悪」に立ち向かう。仲間の幼女を拉致された森の民ラーマは、虎や豹などの猛獣を手なずけてここぞというところで「文明人」に向けて放つ。ラーマは闘士だった父の遺志を受け継ぎ、同族の者すべての手に武器をという目標を達成すべく暗躍する。観客が文字通り手に汗を握る戦闘シーンの連発だ。

二人が不屈の精神力と体力で艱難辛苦を乗り越えるさまは荒唐無稽な設定なのだが、この二人には実在のモデルが存在し、現実には出会うことはなかったものの、もし出会っていたらかくのごとき胸のすく活躍を共にしたのではないか、という想定でこの物語は創られている。観客の期待を裏切ることなく、英国総督夫妻は惨死する。舞台は1920年、インド独立に向けて歴史の動く背景がある。究極的には「勧善懲悪」ストーリーの最たるものなのだけれど、大英帝国は撤退しインドが独立するという史実を踏まえていればこその高揚感が全編に漲る。随所で繰り広げられるインド映画定番のダンスシーンは、観客の共感を呼ぶ最大の仕掛けだ。「ナートゥダンス」(Naatu Naatu)がイギリスの「上品な」ダンスを圧倒する、ダンスバトルシーンは血みどろの交戦場面に勝るとも劣らない大迫力だ。それが全くこのダンスを知らなかった観客にも訴求することは間違いない。

“RRR”とはRise(蜂起)、Roar (咆哮)、Revolt(反乱)を表すとも、英語以外の現地のことば(テルグ語、タミル語、カンナダ語、マラヤ―ラム語)では「怒り」、「戦争」、「血」を意味するRの入ったそれぞれのことばに由来するともパンフレットには記されている。この映画では英語は限定的にしか用いられない。世界の観客を相手取って、インドは非英語の世界を正面から突き付ける。人口で間もなく中国を抜き去ると言われているインドが、今後様々な分野で存在感を示すであろうことは想像に難くない。$72,000,000を投じて制作されたこの映画が世界に向けて咆哮するインドの象徴的自己主張なのだとしたらどうだろう。そういえば、イギリスの現首相はインド系のRishi Sunak氏であった。

『イニシェリン島の精霊』はアイルランドの西端にあるアラン諸島に舞台を設定している。時は1923年。長年英国の植民地だったアイルランドが独立に向けて武力闘争も辞さず、同時に内部抗争も抱え動揺していた時代だ。本土での戦闘の音はイニシェリン島に時折聴こえて来るものの、直接の関りはない。殆ど樹木の生えない独特の荒れ地に、人々が牛や馬、ロバに犬などの動物と共に暮らしている。アランセーターで有名なこの地は、漁夫たちが荒海に乗り出していくことでも知られているが、この映画に漁夫は登場しない。

パブは一軒だけ。日曜毎に住民が集い司祭に罪を告解する教会堂も一つ。小さな港の近くに郵便局兼食料品店がある。せいぜいその程度の中心地の周りで村の日常生活が繰り広げられている。誰もが互いを知っている小さな地域共同体だ。ある日、村のパードリックという男が、それまで仲の良かったコルムという男に突然絶交を言い渡される。パードリックは絶縁の理由をコルムに何度も問い質すが、「もう俺に関わるな」「話しかけるな」と突き放されるのみだ。だが、「話しかけたら俺の指を一本ずつ切り取ってお前にやる」という物騒な脅しすら受ける。パードリックの呆然とした様子と、取りつく島の無いコルムの頑なさが「不条理」を絵に描いたように画面を支配する。

次第に明らかにされるのは、コルムが人の好いパードリックの果てることのないパブでのおしゃべりに辟易し、自分はフィドルを演奏し、作曲し、思索することに人生を捧げたいという望みだ。パードリックにはだからと言って、彼が自分と口も利かないと宣言したことに納得がいかない。すれ違う二人の対立は次第に緊張感を高め、グロテスクな展開を遂げていく。これは銃を撃ちあったり爆弾を投げたりするような暴力とは無縁の世界だ。だが、あくまでも清冽な風景の中で、掛け違った人間同士が生み出す危機的状況には、場所も時代も超えた普遍性が見える。誰も仲裁できないし、誰にも止められない戦いの構図がある。

この映画は象徴性の高い文学のテキストのようだ。激高しやすく薄汚い司祭、自分の息子に容赦なく暴力をふるう警官、一見阿呆のように見えて本音を言い放つ青年、他人のプライバシーを侵害して恥じない商店主の女、魔女のような風貌の老女、パブで噂話を垂れ流し続ける男たち、そして物言わぬ動物たち。パードリックが可愛がっているロバのジェニーはとりわけ重要な存在だ。さらに、パードリックの妹のシボーン。兄と旧友の仲違いを冷静に見つめながらも、コミュニティーの機能不全に別れを告げる。断崖に立って妹の乗った船に手を振るパードリックの孤絶。兄を放って出て行くシボーンの美しさと強さ。『イニシェリン島の精霊』における痛ましさと滑稽さは紙一重だ。悲劇かと問われたら、悲喜劇だと答えよう。パードリックとコルムは和解するのか?「戦いはここから始まる」というパードリックの最後の言葉は人間の救い難さを示す。だがその愚かしさが愛すべきものであることも明らかだ。

RRRに見られる大群衆のパワーと、『イニシェリン島の精霊』に見られる荒削りの人間の本性。それぞれの映画に描かれた生きとし生けるものの「動と静」に暫したじろいで、私は心が鎮まるのを待っている。1920年代に題材をとった二つの映画の衝撃は大きかった。映画は没入できた時に、確かに観る者を別の世界へ連れて行く。だがそんな作品にはめったに出会えるものではない。だから、たまさか別世界への旅をしてきた者は、せめてその特異な体験を語りたがる。こうして、何ともたどたどしい言葉で。

初出 田崎清忠主催
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