初出 田崎清忠主催
Writers Studios
2022年 11月30日

散策思索 27

「始まりの 奈良」

 

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          散策思索28  「始まりの 奈良」

                                              北田 敬子

奈良に行くのは半世紀以上前の修学旅行以来だった。中学校でも高校でも「修学旅行」と言えば京都・奈良を巡るのが定番だった時代―昭和40年代(1960年代)―には関東地方から北海道や沖縄はおろか、海外へ行くことなど誰も想像しなかった。数年前にニュージーランドへ行ったとき、私の出身高校の生徒たちが大挙して同じ飛行機に乗り込んでくるのに出会って驚愕した。(制服ですぐ分かった。修学旅行の行き先は変わったのに制服が変わらないということにも驚いた!)

家族の一人が仕事で奈良に赴任したために、俄かに奈良が身近な土地となり、関西文化圏に親しむ好機ではないかと考えたのが、私の奈良旅行への動機だった。10月中旬の週末、二泊三日という旅程でどこを回ったらよいか、あれこれ観光ガイドブックを見ながら思案した。ハタと気付いたのは、自分がこの歳月に奈良についての知識を何一つ「更新」して来なかったということだ。自国の文化や歴史に如何に疎いかを思い知ることになった。

旅の三カ月ほど前、2022年7月8日に前首相が近鉄奈良線の「大和西大寺」駅前で銃撃され落命した。安倍氏が狙撃場所近隣の「平城宮跡」からヘリコプターで病院に運ばれたという報道記事を読み、ヘリの離着陸が可能な広い敷地を持つ史跡とはどのようなところだろうと、私は漠然と考えていた。古い神社仏閣のことしか念頭になかったので、奈良と広い空間がどうにも結びつかなかったのである。

京都で新幹線を降りてエキナカ商店街で弁当を買い、近鉄奈良線のサロン車に乗った。グループがテーブルを囲める仕様の車両は珍しかった。奈良まで僅か30分。件の「大和西大寺」駅で先ず気付いたのは行き交う人々が「奈良のことば」で話をしていることだった。自分では話せない言葉を耳にするというのは、何より異郷に降り立つ感覚だ。構内から駅前広場が見えた。狙撃現場にはもう花束もなければ、そこで人が倒れた形跡もない。あんな何の変哲もない場所で事件は起こったのか、歴史は突然日常に刻まれるものなのか、と奈良旅の第一歩で私はたじろいだ。

十月とは言え気温27℃を超える暑い日だった。「平城宮跡」に辿り着くまで,てくてく歩いた。突如草むらの彼方に「第一次大極殿(だいこくでん)」が姿を現した時、「天平の甍」という言葉が頭をよぎった。それが茫漠と広がる造成地の真ん中にただ一つ威容を誇っていることに当惑し、その艶やかさに意表を突かれた。ここに何を見に来るかあまり深く考えていなかった。私は宮殿が古色蒼然たる遺構ではなく、発掘された遺跡の上に再構築された非常に新しい建築物であることに漸く気が付いた。

大極殿(2010年復元完成)を風が吹き抜けていく。正面の開いた扉から見晴らすと、東にも西にも低い山並みが遠望できる。確かに奈良が盆地であることが分かる。南側には2022年3月に出来上がったばかりの「大極門」、彼方に「朱雀門」が豆粒のように見える。何と広々したスペースだろうか。これが奈良時代に都の在った平城京の宮殿内裏なのか。人々がさんざめきながら行き交い異国の使者が訪問する情景を空想してみたくなる。
古代には遣唐使が荒海を命がけで中国へ渡り、中国からは鑑真に代表される僧侶が日本を訪れて文物を伝えた。その要となった平城宮を資料に基づいて、最新の耐震構造を持つ建築技法で再現しようとは壮大なプロジェクトである。現在でこそ、敷地の大方が茫々たる草に覆われ、中心部に整地を施されただけの何もない空間だが、いずれいくつもの建物が(記録の通りに)再び建立され、そこはタイムトラベルの基地になるはずだ。短期間で普請されるテーマパークとはわけが違う。時間も予算も人手も必要な「国営平城宮跡歴史公園」として整備される公共の文化事業である。自分が生きている間には終わらない仕事を目の前にして、歴史の流れのほんの一部に漂う己の身を一瞬自覚した。(ここからならヘリコプターの発着など容易いこともよく分かった。)

翌日は近鉄奈良駅から東大寺を起点に若草山のふもとを時計回りに歩いた。まだ十分にはコロナ禍から回復していないためか、観光客はごくわずかだった。修学旅行生には北海道からの一団に出会ったのみ。海外からの来訪者とはほとんどすれ違わなかった。大仏様は昔見た時ほど威圧的ではなかった。大仏でさえ、火災で焼失した後再建されたと聞く。人々は信仰の対象、権威の象徴を消えるに任せておくようなことはしなかった。幾度も作り直す。してみると、文化財は古いだけで有難いのではなく、どのような経緯で今ここに伝えられているのかを辿ることこそ重要なのではないか。高校生の頃はそんなことには思い至らなかった。今は、「よくぞ今日までここに」と半眼の釈迦牟尼仏を見上げている。信仰心の故にというより、今生の波乱を思うと、保存し続けようとする人間の伝承の意思に畏怖を覚える。世界各地で遺跡を攻撃目標にする戦の数々が報道される現代であれば尚、文化遺産保存の意味に気付く。

東大寺から南に歩き、春日大社をさらに下ったところにある、新薬師寺の薬師如来像とそれを囲む十二神将立像には釘付けになった。スケールで人を圧する大仏とは異なり、一体一体表情も体型も構えも別々の立像、元は彩色されていたという。(傍らに置かれたデジタル技術で再現されたレプリカの鮮やかな姿は、今にも動き出しそうだった。)仏教芸術の何たるかもよく知らない一介の観光客を魅了する十二神将は、古の名工の技が時を超えて今に生きる証だ。そのアスリートさながらの体躯と鋭い眼光、引き締まった口元や喝を入れんと大きく開いた口元、いずれからもパワーが噴出している。「生きている」と感じた。

その後「ならまち」と呼ばれる近世から昭和に至る町屋の並ぶ道筋をたどり、猿沢の池の畔、興福寺に。(おっと、途中立ち寄った「糞虫館」も忘れ難い。奈良のシカの糞を食べて自然循環させるフンコロガシの民間研究施設!)興福寺五重塔が水鏡に映り、宝物館では凛々しい阿修羅像を拝観した。確かに、奈良公園周囲の名刹、収蔵・公開されている仏像の数々は見事だった。ただそれに負けないのは、最終日に雨の中、佐保川縁を延々歩いてたどり着いた「奈良市埋蔵文化財調査センター」で見た、国宝級の文化財とは無縁の、『また!ナニこれ?』という小規模のユニークな展示会だった。使途がしかとは判別できないけれど、人々が珍重していたらしい埋蔵物を整理して並べ、現代人の想像力を刺激する試みに思わずクスリとした。たとえば、おそらく玩具だっただろう素朴な陶器のイヌたちは、夭死した子どもの副葬品だったのではないかという見立て。奈良の土中にはまだまだいくらでも発掘を待つモノが埋まっていそうだ。

「さほど遠くないから歩いて行けますよ」との言葉を頼りに、「調査センター」からビュンビュン車の走り抜ける道をおっかなびっくり行って拝観した「薬師寺」。<凍れる音楽>の異名を持つ五重塔の前で私は雨に打たれながら、奈良には何度来ても足りないだろうと思うばかりだった。

泥縄の知識で古建築を目にしても、到底太刀打ちできるものではない。古墳、仏塔、寺、神社、古民家―そのような風景と共に千年数百年を超えて受け継がれてきた場所、奈良。おそらく私はまた幾度か訪れるに違いない。既成ルートを外れて興味の赴くままに散策できるようになるには何年かかるだろう?学ぶことはいくらでもある。歴史は悪夢ではなく扁平な記憶でもなく、今を映す鏡だと本当に理解できるようになるまで、「修学旅行」には何度行ってもよいのだろう。健康寿命との追いかけっこの始まりだ!

良旅 2022 写真帖 / Photos: A TRIP TO NARA, 2022 

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