初出 田崎清忠主催
Writers Studios
2022年 8月30日

散策思索 27

『夏の波乗り』
コロナ徒然-6

 

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          散策思索27  「夏の波乗り」―コロナ徒然-6

                                              北田 敬子

今年も夏がゆく。猛暑、炎暑、酷暑と呼び名を変えながら、尋常でない暑さがいつしか常態となり40℃を超えた街があるというニュースに辟易しつつも、さして驚かなくなってきた。異常気象、地球温暖化の現れ、はたまた観測史上最高の―などという枕詞には慣れっこである。

COVID-19感染者数についても、似たような感覚がある。4回にわたるワクチン接種の度に副反応に襲われ、発熱で床に伏しているときに「本物のコロナに罹ったらこんなものではないだろう」と思った。にもかかわらず、数字はどこか他所事に感じられ、COVID-19発生当時に怯えたような危機感はいつしか失われている。それは「いつ感染しても仕方がない」という諦めと、「自分は大丈夫なのではないか」という根拠のない楽観によるものと思われる。

2020年4月から2022年3月まで私は二年間リモートワークに徹し、4月にキャンパスに戻って対面授業を再開した。それは職場の寛容さやオンライン授業を実行する通信機器類、アプリケーションソフトの整備によって可能なことだった。久しぶりに教室に戻ってみると、学生との直接のやり取りがどれほど素早く情報量の多い緊密なものであるかを再認識したことは言うまでもない。と同時に、オンライン時にある程度培われた、学生の自学自習の習慣を継続・発展させていかなくてはという思いを新たにした。

教室で出会う学生たちからは、ぽつりぽつりと「コロナにかかったので、今週休みます」というメールが届き、彼らは2〜3週間で戻ってくると何事もなかったかのように平然としている。予告なしに欠席した学生の動静をクラスメートに尋ねると「あ、コロナじゃないですか」とあっさり答える。重症化する割合の低い若者たちの間で、COVID-19は日常化していると感じられる。大学からは感染者が出るたびに、連絡のあった日時と経過の概略を知らせてくる。但し、個人情報を守る見地から人物やクラスなどは一切明かされず、概ね「現在は平熱」といった事後報告となっている。

したがって、いつ・だれが・どこで罹患し、どのような症状に見舞われたのかは一切分からない。教卓にはアクリル板が設置され、黒板はなるべく使用せず、配布物の手渡しも控えるよう、ましてや机間巡視などは慎むようにというお達しは出ていたものの、形骸化していると言わざるを得ない。実際に教室に出て行けば、アクリル板の前に静止して英語の授業などできるものではない。オーディオ機器のみならずスクリーンにドキュメンタリー映像を写しながら音を聴かせる場面で、聴きっぱなし見っぱなしはないだろう。「では実際に発音してみましょう」というステップを踏むことになる。学生たちがマスクの向こうでもごもご言っているのを聞きとがめて、「もう一度」「こんな風に」と言いながら、教師自身も声を張り上げる。ついマスクを外したくなる誘惑にかられる。その度にぐっとこらえるのは辛い。授業終了後に教壇に近寄ってくる学生から質問を受け、直接話をすることすら「濃厚接触」と呼ばれるのか。小・中学校ではそれなくして学校生活は成り立たないだろう。今更ながら担当教員の苦労を痛感する。

要するに、感染経路は不明なまま、高齢者は4回のワクチン接種をすることで(罹患しても)重症化を防ぎ、若者たちは重症化の少ない集団として「かかったら(大学は)休み、治ったら証明書をもって出ていらっしゃい。コロナ欠席は公欠と同じ扱いにします」という大雑把なルールで「コロナと共に生きる (Life with COVID-19)」時代が進行中ということである。第7波と言われる2022年の夏はかくの如く終わりを迎えようとしている。義務教育機関が一斉休校をした2020年の春先とは比較にならないほど膨大な感染者が出ており、医療現場が逼迫しているにもかかわらず、決定的な施策はない。自己防衛、自宅療養、自主待機、といったところが奨励されている。

この夏、イギリスのOxfordに滞在した友人からのメールには、「街中でマスクをしている人はほとんどいません。ただ、帰国便に乗るためにはPCR検査を受けて陰性反応が出たことを証明しなくてはならないので、ヒヤヒヤものです」とあった。Facebookには、アメリカ、ニュージーランド、ウェールズなどで満面の笑みを浮かべる知人たちの写真がアップされている。6月中旬にアイルランドのダブリンから街中の様子をYouTubeで配信してくれた仲間もいる。海外渡航は既に可能なのだ。海外から日本を目指す観光客は未だ戻らないけれど。ということは、感染リスクを恐れて自己規制することなく、単独で自己責任を自覚して行動する人々に移動の自由はかなり緩和されているということか。

しかし、2020年とも2021年とも異なるのは、シベリア航空路が閉ざされたということだ。ロシアのウクライナへの軍事侵攻は確実に極東の人々の行動にも影響を及ぼしている。2022年2月以降、COVID-19禍とは別の要素が私たちの日常に加わった。自粛を重ねて行動を控えているうちに、さまざまな変化が起きた。COVID-19と戦火は別々の事象だったはずだが、通底しているのはいずれもいつ終息するか誰にも予測できない日々に世界が突入しているという点だ。

もちろん戦火はウクライナに限ったことではない。地域紛争は世界各地で進行しており、難民の移動は随所で続いている。COVID-19もepidemicからpandemicになり、やがてはendemic化すると予測する人々もいる。すなわち、最初は特定の地域で検出された感染症が、世界全土に拡がり、やがて地域ごとに沈静化と流行を繰り返す病となっていく過程をたどるという予想だ。完全な終息ではなく、常に流行の兆しを警戒しながら大小のコミュニティーで対策を取る必要のある感染症と考えていくこと―世界から目下猛威を振るう感染症が消えるという意味ではない。

散歩の途中で陸橋の内側の塀にかなり色あせた「コロナ対策 東京かるた」という張り紙を見つけた。曰く「 うちにいる ただそれだけで大貢献」「 帰らない 両親のため地元には」[ 生産性とっても高いテレワーク]「 ウィルスを 終息させるぞ 底力」。まるで「欲しがりません勝つまでは」だ。このようなスローガンをいくつ並べればコロナは過ぎ去るのか。いや、去らないと知ることが重要なのだと思いながら私は歩き続けた。そういえば、「 群れないで一人歩きが基本です」 というのもあった。未来の展望は、おそらく性急に解決策を求めない生き方を体得することにしかない。病や死を忌避せず直視しながら、同時に生命の輝きを見失わないこと。それは各人各様の生き方のうちに誰もが自分で見つけ出さなくてはならないものだろう。

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