初出 田崎清忠主催
Writers Studios
2020年 9月07日

散策思索 23

『雲の峰』コロナ徒然-2

 

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散策思索23  「雲の峰」―コロナ徒然-2

                                              北田 敬子

湧き上がる積乱雲。外気はゆうに37℃を超えている。日差しとアスファルトの照り返しに挟まれて体が焼け付く。工事現場の金属塀は横からも熱波を送ってよこす。日傘が作り出す一人分の陰など何の役にも立たない。これが東京の街角の真夏日だ。雲の峰を路地からでなく田園や山道や、あるいは海辺で見上げたら、青と白はどれほどくっきりしたコントラストを描くだろう。その風景は歓喜を呼び、仮に同じ気温だったとしても爽快な暑さと感じられるのではなかろうか。街の工事現場がぽっかりと開けた空間を、信号で立ち止まった一瞬に見晴らして、私は夏雲に魅入られた。

COVID-19(新型コロナウィルス)感染者拡大を避けるため、私たちは2020年の夏、ささやかな旅行に出ることすら控えていた。行政はむしろ経済再興のために「Go To トラベル」なる旅行者への優遇措置を講じ、「感染に気を付けて出かけること」を奨励した。但し、感染者最多の東京発は除外され、各地の人々も「東京者」は歓迎しない旨を公言した。東京に住む者たちは感染の連帯責任を負わされているようだった。お盆の帰省すら控えるようにとのお達し。医療の専門家たちは蟄居を勧め、行政は外出と消費を勧める。人々は自己判断でリスクと、あるかなしかの自由を天秤にかける。感染者数はじりじりと増減を繰り返し、消えもしないが爆発的に増えもしないという不安定な見かけを推移し続けてきた―2020年、日本の夏はそういう不確かで曖昧な時だった。

WHOの公式情報特設ページによると、2020年9月4日現在、世界のCOVID-19感染者25,884,895人、死者859,130人と報じられているが、これは日を追うごとに更新され未だ増加の一途をたどっている。この数をどうとらえたらよいのだろう。各国の感染者・死亡者リストを見ると、アメリカ合衆国を筆頭に日本は44番目となっている。相対的な多寡を比較しても無意味だろう。明白なのは我々すべてが当事者であり、いつでもこの数字に加えられる可能性を持っていることだ。そこから現実をリアルに受け止めざるを得ない。

最も弱い者たちの集う高齢者介護施設でクラスターを発生させないように、何処も厳重な警戒をしている。私の母が入居している民間のグループホームでも、家族の面会が制限されてきた。記憶がおぼろげになり、車椅子に座ったきりの母の様子を時々見に行かずにいられない。恐る恐る案内を乞うと、先ず検温・手の消毒・うがい・訪問記録の記入という手順を踏んで、母の私室に入るのを許されることもあれば、玄関で顔を見るだけで15分間程度の面会を終えなくてはならないこともある。母には、どれくらいCOVID-19の実情が理解できているのか判然としない。流石に消毒をしたのだからと、この頃は私も母の手を握るようになった。ほぼ毎日、自宅周辺を用心して歩く程度の行動範囲を保っていればこそ、おそらく感染する契機は無かろうと判断しての訪問である。感染したら重症化する可能性の高い年齢層に私自身が含まれていることを自覚すると、「私は大丈夫」などと過信することはできない。誰しも地雷原を歩むような日々に在る。

いつまでこのような状態は続くのだろう。アメリカのコロラド州にいる友人からは、社交を絶っているとのメールが届いた。チェスクラブもダンスも友人たちとの食事会も。ただ毎週日曜日の朝、近くの公園のベンチに一人の友人と6メートルの間隔を取って座り、語り合うのが楽しみだという。私も友人たちとの会合や会食などから遠ざかって、既に半年以上になる。学生たちともリアルライフでは接していない。少しずつ行動範囲を広げたいと願うものの、リスクは避けたい。かつての習慣を取り戻すことを望んでいるのか、それとも世にいう「新しい生活・行動様式」を模索すべきなのか。「正しく恐れよ」という警句は優柔不断を戒めているのか、それとも積極的に恐怖を克服せよと叱咤激励しているのか、メッセージをどう受け取るかは各人の理性と倫理観に委ねられている。強制的なロックダウンを経験せずに今日まで来た我々の「自由」が試されている。

折も折、アフリカ大陸東岸、インド洋上のモーリシャス沖で日本企業所有のタンカーWAKASHIOが座礁し、重油約1000トンが海洋へ流出した。沿岸の動植物、景観に与える影響は甚大で、日本は環境汚染の当事国になった。マングローブの根にこびりつく真っ黒な重油や海面に広がる帯状の重油に、被害の規模のただならぬことが窺える。復興作業は続く。地震や津波の後も、大洪水の後も、そしてテロや戦争による破壊の跡も、命長らえた者たちが一つ一つ瓦礫や汚泥を取り除くことから始めるしかない。遠隔地から何をどのように支援できるのか当惑しているとき、日本の繊維企業から油だけを吸いあげて除去する吸着剤を提供するという声が上がった。事故の規模を考えると一見荒唐無稽に思われるが、千里の道も一歩から。虚無感や無力感に襲われている暇はない。世界は政治や情報産業だけに支配されているのではない。実働する者たちによって支えられているのだと快哉を叫びたい気持ちがした。

真夏の雲の峰を仰ぎながら覚えた一瞬の高揚感を取り逃がしたくないと思った。重苦しく制限だらけの日常に僅かな間隙を認めたとき、人の心はもがき出す。このようなものではない選択もありうるのではないか。自制や自粛が、羽ばたこうとする気力や意欲を奪うばかりだとしたら、新鮮な発想は枯渇する。モーリシャスの海に漂う重油も、増加する感染者の数も、母の骨ばった手も、会えない人々も、私の中で連鎖して出口を求めている。野放図な自由が欲しいのではなく、沈潜の中から浮かび上がって息がしたい。ここから逃げるわけにいかないなら、通気口を探したい。

ポストコロナを語るのは時期尚早だろう。With COVID-19の掛け声やよし。酷暑に追い打ちをかける台風の後に、ただ秋冷の大気が希望を醸成することを信じて、今暫し!

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