初出 田崎清忠主催
Writers Studios
2019年 6月 20日

散策思索 11

「図書館の本」

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11 「図書館の本」

北田 敬子

大学図書館で長らく貸し出し延長を申請しながら、いつまでも返せない本があった。気になっていたらとうとう督促が来た。さて、と思うと今度は当該図書が見当たらない。どこかにしまい忘れたようだ。面目ないがさすがにこれ以上引き延ばすことは憚られ、弁償を申し出た。図書館の指示は、新規購入したものを図書館に収めて欲しいとのこと。早速大型書店に在庫確認をしたら一冊あると言われ、その日のうちに受け取りに行くことにした。


それはNoam Chomskyの『言語の科学』で、受付カウンターにはずっしりと重い単行本が待っていた。買ったとたんに手放さなくてはならないとなると思いのほか未練を感じる。(何故、直ぐ読んで返さなかったのだろうと不明を恥じるばかり。)


図書館と言えば、『ニューヨーク公共図書館』(“Ex Libris- The New York Public Library”)というドキュメンタリー映画を、神保町の岩波ホールで上演しているのを思い出した。すると矢も楯もたまらず、書店を出たその足で私はホールに向かった。だが、窓口では「もう上映が始まっています。座席は一番後ろに一つ空いていますが、どうしますか?」とつれない。時計を見ると開始後約5分ちょっと過ぎたところ。最初の部分を見損なったとて大勢に影響なかろうと、入場させてもらうことにした。


中途入場者がいると、既に映画に没頭している観客にとっては大変迷惑だ。身を縮めて座席を探した。暗闇で戸惑っている私を、ありがたいことに親切な人が手を伸べて導いてくれた。座った途端に、利用者からの電話の問い合わせにきびきびと答える司書の巧みな応答ぶりが視界に飛び込んできた。どのようにすれば目的の資料にたどり着けるかを、懇切丁寧にしかも具体的に「自分だったらこのような手順で」と説明している。まるで良心的な企業のコールセンターかそれ以上の巧みな話術だ。図書館のサービスの質の高さを前置き抜きで、ストレートに見せつけられた格好だ。


だが驚くのは早かった。ドキュメンタリーの巨匠、齢90になりなんとするFrederick Wiseman監督は、この巨大な図書館を、本館を含め92箇所もある分館や研究図書館、3000人余りの職員、そして出入りする利用者たちの姿を様々な角度からとらえ、丹念に記録している。エピソード(切り出される場面)は多岐にわたり、閲覧室の様子・公開講演・各種パフォーマンス・音読録音・教育プログラム・就職支援・ワークショップetc.そして幹部職員の会議や各地での館員と利用者の対話集会などの様子が丹念につながってゆく。


収蔵資料の映像、館内で開かれる音楽会、詩人たちの朗読、工場並みのスピードで処理されていく返却図書の仕分けなど、図書館の表と裏が巧みに交差し、画面は鮮やかに切り替わる。しかし、なんといっても場面を埋め尽くす人々の語る言葉(英語)の奔流に、観客は最初から最後まで飲み込まれずにはいられない。私は早い段階で字幕を読むのを止めた。飛び込んでくる英語のシャワーを浴びた方が良い。ホールに居ながらにして私の目も耳もNew Yorkに飛んだ。(実際には行ったこともないのに!)自分も図書館利用者の一人になり、会議に参加するスタッフの一員になったような気分だ。後から知って臍を噛んだのは、最初のシーンは高名な英国人進化生物学者Richard Dawkins(『利己的な遺伝子』の著者)の公開トークだったということだ。冒頭の5分間を見逃したのは大失敗だった。


カメラは図書館内に留まるわけではない。場面が切り替わる際、ほぼ例外なくNew Yorkの街並みが映し出される。おそらく街を訪れたことのある人々には馴染み深い通りの道路標識が示され、街の臨場感を高める。New Yorkの多様性を体現しているのは、この図書館が多様な境遇や人種に対してそれぞれの立場を尊重した企画を提供していることだ。とりわけアフリカ系住民とその文化や歴史に払われる敬意と配慮には並々ならぬものがある。「黒人文化研究図書館」の存在に何度もカメラが向けられ、「ブラック・イマジネーション展」でのアート作品は映画に鮮烈な彩を与える。また、奴隷制の歴史を丹念に掘り起こす研究の数々が、詩人や作家による自作朗読やレクチャーから顕示される。地域分館では識字教育に始まり、デジタルディバイドによる不利な境遇から脱出するためのIT教育、教員・生徒・親たちを支援する参考書やワークショップの提供、など幅広い実践が見られる。


通常の劇場公開映画の長さ(2時間程度)を大幅に超え、休憩15分間を挟んでの3時間半に及ぶ上映時間であるにもかかわらず、満員の観客は始めから終わりまで熱心に画面に見入っていた。それにしても、平等に知への扉を開ける権利を保障するのが民主主義だ、という一貫した信念のもとに運営される公共図書館の在り方は圧倒的だ。誰でも無料で、組織に所属していなくても必要なデータへのアクセスが可能になるというのは見過ごせない。予算獲得戦略や使途方法をめぐる真剣な議論にも引き込まれた。(通常、組織内部の会議を部外者が目にすることなどありえないだろう。)


この映画を見て、私は自分のさやかなアメリカでの体験を思い出す。Los Angelesに近いPasadenaに滞在していた時、近隣のThe Huntington Libraryにreaderの資格を得て数週間通ったことがある。広大な庭園(サボテンが中心だが日本庭園の一角もある)を擁する敷地に建つその私立図書館は、瀟洒で重厚な建物に研究者の集う別世界だった。初めてポータブルPCを持参する学者を見たのも、珍しさに人々がより集うのを目撃したのもそこだった。私はいつも小さくなって与えられた座席で細々と読書するばかりだったのだけれども。Alabama州のBirminghamでは、幼かった娘を街の図書館で遊ばせた。University of Virginiaに滞在した時には、大学図書館でホームページ作成講座を受講した。未だインターネット上にまともなブラウザーが存在せず、「データは図書館の床にぶちまけられた未整理の書籍のようなもの」と称されていた時代だ。だが、その後のネット世界の発展は著しく、最も初歩的なHTMLスクリプトの記述を図書館で習得したことがその後どれほど役に立ったかしれない。考えてみるとアメリカでは、不案内な土地で先ず頼れる行き先がいつも図書館だったのに気付く。図書館は外来者にも広く門戸を広げ、必要な支援を与えてくれた。


The New York Public Libraryの“public“は「公立」とは違う。「公共」とは“of the people”ということなのだと映像は語る。この図書館は州や市の予算と個人献金・寄付の双方で成り立っているという。印刷物、電子データの蓄積・保存・貸出とともに、人々の集う場を提供し互助を推進する公共図書館。そのダイナミズムにアメリカの底力を見せつけられた。この映画に表出されているのは、壁を作るばかりではない、アメリカの懐の深さとでもいうべきものだろう。そして、画面に大写しにされる人々の顔と姿、佇まいのリアリティーが強烈だ。肌の色の違いを問わず、いずれも倦み疲れたような人生の過酷さを潜り抜けてきたような、渋面に近い、それでいてしぶとくしたたかな個性に溢れた表情。かくも大勢の素顔のNew Yorkersを間近に見る機会はそうあるものではなかろう。図書館をルポしながら、これはとりもなおさずその街に生きる人々のルポである。“Ex Libris- The New York Public Library”は間違いなく観客とNew Yorkをつなぐ。


私は、自分が大学図書館の蔵書を紛失したことを悔やむとともに、あらためて図書館の役割を考えている。本来図書館は書籍の倉庫ではない。少なくともNYPLは電子データを含めて「所蔵資料を活用する人々の交流する場」となる可能性を示していた。その場を命あるものにする努力を怠らない人々の姿に私は心を揺さぶられた。そして偶然にもこの映画に私を向かわせるきっかけとなった1928年生まれのChomskyと、映画製作監督である1930年生まれのWisemanが共に健在で、現代文明を牽引している事実にも驚愕している。

(Dawkinsのトークを聞かずにいられなかった私は、後日この映画を再度観に行った。しかし、著名人以上に興味深いのが、館員やNew York市民の語りであることを改めて認識する鑑賞となったことを付記しておく。)

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