初出 田崎清忠主催
Writers Studios
2019年 5月 23日

散策思索 10

「カフェと珈琲」

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10 「カフェと珈琲」

北田 敬子


散策の途上、どこかで一息入れる楽しみは今も昔も変わらない。昔、と言っても私が思い出す昔など、(高校生時代としても)せいぜい半世紀前のことに過ぎない。それでも、50年間の変化はそれなりにあっただろう。かつては「喫茶店」と呼ばれていた、一杯のコーヒーを前に何時間でも粘れる店には学生時代、よく通った。そんな「純喫茶」は既にレトロなものとなり、現在若い人たちが立ち寄る場所は、「カフェ」と呼ばれる。 だが「カフェ」という言葉は私にもう一つ別のことを思い出させる。祖母の「かふえ」だ。

私の父方の祖母は明治22 (1889) 年生まれ。全く学校教育というものを受けずに5歳の頃から子守に出され、年季が明けると上越地方の寒村から秩父の紡績工場に送られた。誰もが貧しい時代だったから、明らかな「口減らし」だったにもかかわらず、祖母の記憶の中にその経験は「悲惨な女工哀史」としては残っていないようだった。詳しい経緯は不明ながら、間に立つ人があって祖母は祖父と結婚し東京の墨田区に所帯を持った。(東京スカイツリーの立っている押上の近く。)

父はこの夫婦の二人目の子供で、大正11(1922)年の生まれ。出生の翌年に関東大震災に見舞われた。祖母は長屋の二階から息子を抱いて表に飛び降り、つかまった目の前の電信柱が左右に大きく揺れたと後年何度も話していた。十間橋のあたりでは大きな波が溢れ出すたびに魚が道に打ち上げられたという。地域としては、大勢が火災で犠牲になった被服工廠からもさほど離れていない土地である。

この祖母は、いささか山師の気風のあった祖父を支えるため、食堂を開いた。最初は板前を雇ってみたものの、感心しない輩だったため、しばらく傍で調理を観察し、技を習い覚えたところで彼を解雇した。その後は習い覚えた調理の腕で、町工場の前にあったその飯屋を繁盛させたという。その後、祖母は飯屋をやめて「カフェ」を始めた。それがどんなものだったかを聞いても、子供時代の私にはよく理解できなかった。ただ、女の人たちを雇っていたこと、祖母は若い女の人たちがいる店は息子の教育上あまり好ましくないと判断して、思春期の息子を筋向いの石屋の二階に下宿させたことをよく話していた。息子(後の私の父)は中学から商業高校時代に、その石屋の息子の家庭教師をしたということだった。当時のカフェとは、今でいうスナックかキャバクラと言ったところだろうか。父の姉である私の伯母はそれを「かふえ」と発音していた。

すべては断片的な祖母の語りをつないで思い出すことしかできないのだが、石屋の息子と下宿人の父には、二人で近くの煎餅屋の物干しに乾かしてあった売り物に揃って放尿し、こっぴどく叱られたという「武勇伝」がある。どこからどこまでが本当のことか判然としないが、かすかに記憶しているあの町でなら、ありそうな話だ。

当時はまだ珍しかったシャープペンシルを製造販売しようと思いついた祖父は(失敗して)なけなしの金をすべて失い、50歳の頃には当時で言う「中気」(脳卒中)にあたって寝たきりとなった。内湯などない下町の家のこと、祖母は夫をリヤカーに乗せて、開店前の銭湯に運んでは湯浴みさせた。やがて戦争が始まり、大学生になっていた父は学徒出陣で出征した。私が学生の頃、亡くなった祖母の遺品の中から、当時の明治神宮外苑競技場での学徒出陣壮行会を大きく報じた古い新聞が出てきた。戦争中にはもう祖母のカフェは閉じていたはずだ。不思議に東武電車の線路脇にあった長屋の一角は大空襲を免れた。戦争中に祖父は亡くなり、フィリピンへも中国へも送られた父は、乗っていた輸送船を爆撃されたり、腸チフスにかかったり、揚子江に流されたりしながらも運よく生きて復員することが出来た。祖母は父が私の母と結婚してからもずっと一緒に暮らした。

そのような次第で、祖母の世代の「かふえ」には紅灯の巷を想起させるニュアンスが色濃い。「バー」などという洒落たものではなく、安酒を飲ませる「女給」のいる店だ。祖母がそういう商売をやっていたことは家族の歴史の中で語り継がれてはいるものの、詳細は分からない。祖母と共に暮らしていた半世紀以上前の私には、もっと話を聞いておこうという関心もなく、おそらく祖母の記憶も薄れるばかりだったのだと思う。祖母を看取った私の母も、今はグループホームに暮らし、「あの頃聞いた話」をたどってみようとしても「さあ、どうだったかしら。よく思い出せないわ」というのがせいぜいになっている。

であるならば、戦争の記憶も同様だろう。すでに他界している父が元気だった頃は、折に触れ、戦争の話をした。貧しいながら、祖母の厚い庇護を受けて育った父のことであるから、下町のあっけらかんとした陽気さを多分に持っていた。それもどこまでが本心でどこからは虚勢なのか今となってははっきりしない。徴兵検査の時の屈辱的な経験も父の言葉にかかると笑い話となり、腸チフスで命の危険に晒された時のことも、戦友に助けられて如何に切り抜けたか・幸運だったかが繰り返された。流木につかまって揚子江を漂った時には、中国人の操る小舟に救助された際、手を貸そうとする人に「大丈夫」とは言ったものの、水にぬれた衣服が重くて結局一人では船に這い上がることもできなかった経緯など語りつつ、「でも助かったよ」という顛末に、子供たちは何度聞いても安堵するばかりだった。一つ一つのエピソードには、直接の物語ならではの臨場感があった。だが、次の世代に語り継ぐには、幾層ものフィルターがかかっていて、もはやリアリティーは取り戻せない。

それでも、子供の頃祖母の語った「昔の話」は耳の底に残っている。伯母の発音する「かふえ」にも、薄暗がりに灯るネオンのような趣があった。誰も貧しさや労苦、病気、戦災の恐怖を子供の心に擦り付けるような話し方をしなかったのは、最終的に「助かった側」にいたからなのか。祖母の経営した「かふえ」とはどのようなものだったのか、今からでも調べるすべはあるのではないかとこの頃思うようになっている。
現代の日本の街には、どこへ行っても洒落たカフェが軒を連ねる。飲み物を前に話し込む人もいれば、ノートパソコンやスマホをのぞき込んで一人黙々と過ごす人もいる。昔と大いに違うのは、明るい店内に紫煙をくゆらす人がいないことだろう。隔離された部屋で煙草を嗜む人はいるけれど、年々そのスペースは狭まっていく。震災や戦災を超え、健康志向に道を譲り、大資本が展開するチェーン店に押され、昔ながらの喫茶店は風前の灯火となった。復古を願うわけではない。一杯のコーヒーが醸す文化の変遷に思いをいたすばかりである。

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