初出 田崎清忠主催
Writers Studios
2019年 5月 03日

散策思索 09

「桜と菫」

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09 「桜と菫」

K. Kitada

地方によって時間差はあるものの、日本では三月の終わりから四月の初めにかけて、突如桜が咲き始めることで本格的春の始まりが告げられる。もちろん暦の上の新春、年の初めには梅が咲く。いずれも季節の先駆けの花として待たれ、開花は人の心を浮き立たせる。しかし、寒さの中に開く梅と、暖かな気温に促されて開く桜では趣が大分異なる。

桜の満開が続くのはせいぜい一週間。長くても十日がいいところ。その儚さのゆえに人々は花見に繰り出す。梅見は梅林をそぞろ歩くか、窓外に花を愛でながらの宴となろうか。梅花は美しいものの、桜ほどの豪奢な華やぎはない。だから余計に典雅な絵画や詩歌に誉めそやされるのだろう。枝ぶりも匂いも称賛の的になる。新元号の由来に万葉集の梅の項が挙げられ、改めて注目を集めている。逆に桜は雅も俗臭も併せ持つ。

幼い頃、よく大人たちから「明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」と怠惰を戒められた。“Don’t put off until tomorrow what you should do today.” (Benjamin Franklin)「今日すべきことを明日まで延期するな」と言えば済むものを、わざわざ桜を引き合いに出すところが鬱陶しくも日本語の世界である。そうかと思えば散り際の良さが称えられ、「花と散る」ことを強いられた人々が戦時中には多くいたと聞く。桜の花の下には屍が埋まっているという陰惨なイメージが流布されるのも、あまりにも見事な満開の様が人の心を波立たせるからに違いない。ライトアップ流行の前から、人は「夜桜」も楽しんできた。

桜をめぐる言説や詩歌は数限りない。今更桜談義もないものだが、ちょうど桜の満開の時期を挟むように、山や里の地面には菫の花が咲く。植物に詳しい知人のウェブサイトを見ると、30種類以上の菫がある。色も所謂「すみれ色」(あわい紫)ばかりではなく、黄色や紫、青、白、またその混じりなど多彩である。私が毎年確認する東京西郊の雑木林にも数種類が咲き競う。“Ephemeral”(束の間の/短命な植物)と呼ばれる通り、菫の花はあっという間に消えてゆく。茎や葉は残るのだが、あたりにはその他多種類の草々が生い茂り始め、花のなくなったものはもう菫とは判別できない。(少なくとも専門家でも無い散歩者の目には。)私がその話をしたら、友人は「ああ、Wordsworthの菫ね?」と応じた。はかなくなった乙女、Lucyを詠んだ詩のことである。

“She dwelt upon the untrodden ways” (彼女は人里離れたところに住まい)で始まり“A violet by a mossy stone / Half hidden from the eye! / ?Fair as a star, when only one / Is shining in the sky.” (苔むした岩陰の菫のように / 人の目から身を隠し/ 夜空にたった一つ瞬いているときの / 星のように美しい)と称えられる。

密やかで寂しげな乙女が例えられる菫の花は華やかさとは無縁で、気付かない人には踏みしだかれても仕方ないような咲き方をする。同時期に似たような色で群生する紫大根の賑やかさに比べたら、自己主張がない。それでも、待っている者にはこれほどの朗報は ないとばかりの菫の出現である。「そうか、今年も菫が咲いた。春だ、本当の!」と心が弾む。仰ぎ見る桜の「我が世の春」ぶりとは雲泥の差。そもそも大樹と草木を比較すること自体愚かなのだろうが、儚さとしたたかさと両方で、菫は桜の花に拮抗すると私は思っている。

菫は連れ立ってわざわざ見物に行くような花ではない。ましてや宴会など論外。むしろうつむき加減にそぞろ歩く者の目に、静かに語りかけてくるような花だ。だからこそ、何かのきっかけで毎年咲く場所から消えてしまったら大変と、いつも気が気でない。雑木林を管理している市は、このところ間伐に余念がなく、下草は刈る、樹木は切り倒すで、すっかり見晴らしがよくなって安全対策には好都合に違いないが、菫の保全にまで気を使っているかどうか怪しい。

これがカタクリの花ともなると、市は勇んで保護する。開花の季節には別の林で「カタクリ祭」まで開催して、見物客は普段何の変哲もない雑木林の斜面を彩る可憐な花に目を細める。踏み固められた径(trodden ways)だけを歩くことが許され、咲くカタクリの花は可憐さを際立たせる。訪問者は夢中で写真を撮る。同じ花とは言え(大きさにも大分差があるけれど)カタクリと菫では扱いがまるで異なっている。

梅、桜、ツツジ、花菖蒲、藤、菊、と我が国の文化には花見の伝統がある。秋には「紅葉狩り」まで加わり、植物を愛でる文化は揺るぎない。もちろん月も見るし、雪も見る。光害のために都市部では殆ど不可能になったが、星を見る伝統も忘れがたい。(七夕のことは“The Star Festival”と表現される。) それなら初日の出は「ご来光」だ。通常は忙しさにかまけて天も地も顧みる余裕のない人さえ、新年には襟を正して寒さをこらえ太陽を拝みに行く。してみると、この国には未だ天然自然への畏怖と憧憬の念が深く根を下ろしていると考えてよいのだろうか。

だが桜が散った後、我々はあっという間に花を愛でた心意気を忘れる。桜の枝には青々と若葉が茂り、すぐに鬱蒼とした樹木となる。(桜は秋の枯葉にも風情があると称えられるから二度も人々の目を引くのだが、春の花ほどではない。)だから、春には唐突に「ここにはこんなに桜の木があったのか!」と毎年驚かされる。私は高架線が都心の神田川を渡るとき、必ず川面を眺める。水流には僅かに自然の動きがあるので、一瞬のときめきを覚える。桜が咲き誇る時期には、流れの両端に花筏が続く。そのピンク色の筋が消えると、もう季節は青葉に変わったことが分かる。花の饗宴はあっけない。新緑も芽吹きの頃の「萌黄色」は初々しく「新年度」に似つかわしい。とはいえ、それも束の間のこと。高い木々を彩るレースのような繊細さは、瞬く間に濃い緑へと変わっていく。

生命は変化するもの。生まれて死ぬまでそれぞれの命を千変万化させる。人間が例外でないことは言うまでもない。褒められ、愛でられたものが、顧みられなくなるのも必定。そのような生まれ変わり死に変わる命の連鎖をどれほど知って、我々は花や樹に心情を託すのだろう。その色や匂いに触発されて、言葉を紡ぐのもよい。しかし、花にまつわる美辞麗句が、自然の破壊者でもある我々の驕りの表明でなければよいと願うばかりだ。

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