初出 田崎清忠主催
Writers Studios
2018年 8月 8日

散策思索 04

「猫と暮らす」

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「猫と暮らす」 

K. Kitada

 長い間私は猫について妄想をたくましくしてきた。

『吾輩は猫である』を読んで以来、猫は愛嬌のある動物というばかりでなく、じっと人間を観察する怜悧な存在であるのかもしれないと恐れるところもあった。「シュレディンガーの猫」という量子力学の思考実験においては、箱の中の猫の生死を喩にしてミクロな世界の「確率解釈」が争われる。犬でもネズミでもなく猫を登場させたところが、理論物理学者といえども猫の存在になにがしかの思い入れがあるのかと親近感を抱かせる。

 いつの頃からか、道を歩いていて猫に出会うと歩速が落ち、通り過ぎても振り返らずにはいられなくなった。そそくさと歩き去る猫の後ろ姿を目で追うのは無論のこと、どんなに急いでいても視界に猫の姿を捉えると、できるだけよく眺めたいと思うのである。そうしてみると、街中にも郊外にも実にいろいろな猫が生息しているのに気付く。

 当然ながら家猫は姿を見せない。向かいの家に猫が一匹飼われていることは知っていた。だが、それは幻の猫で、まず姿を見ることはない。ただ一度だけ、二階の出窓に猫が座って外を眺めていたことがある。まるで深窓の令嬢だ。大変魅力的に見えた。だからといって、わざわざ向かいの家まで「猫を拝見できますか」と言いに行くほど親しくもない。昨年夏、自宅の測量をする必要があって地続きの四方の家屋の持ち主に立ち会ってもらった。その時、向かいの人は当初快く求めに応じてくれたのであるけれども、当日になって彼は緊張の面持ちで「今朝猫が血尿を出しまして、これから病院に行かなくてはならないのです」と言い置いて、車にキャリーボックスを積んで行ってしまった。

右隣の家の勝手口には動く影に反応して夜間電灯が点くセンサーが付いている。私が座る正面の曇り硝子越しに両家の間のブロック塀と隣の勝手口が見える。暗闇に突然電気がともると「来るな」と思う。果たして、音もなく塀の上を野良猫が歩いていく。もちろん昼間も通る。その塀はこのあたりを徘徊する猫たちの獣道になっていた。

 左隣の家では、野良猫に毎日餌を与えている。我が家の庭も通路になっているらしく、右隣の塀を飛び降りた猫は庭を突切って左隣へ悠々と歩いていく。ひと頃野良に餌をやるのは無責任だと顰蹙を買ったが、近頃では食べさせるだけではなく糞の始末もし、避妊・去勢手術の面倒までみるなら、大いに結構と称揚されるようになってきたと聞く。左隣がどの程度関与しているか不明ながら、餌やりに異議を申し立てる気はさらさらない。

 近所の雑木林には、つい数年前まで4、5匹の猫が出没していた。夕方散歩に行くとたいてい何匹かと顔を合わせたものだ。警戒心が強く、決してそばには寄らせない。遠巻きに眺めることだけが許された。例外は餌やり人たちである。一定の時刻に、一人二人とやってくる。どうやら人間も全員で猫の数くらいいるようで、交代で餌をやるらしい。猫たちは人々の周りに寄って黙々と餌を食む。ところが雑木林の下草が払われ、木々の手入れが行われるようになったら猫の姿が消えた。近くの空き家が壊されたのと同時期だったので、もしかすると隠れ家を失った猫が引っ越したのかもしれず、あるいは餌やりに近隣から苦情が出たのかもしれない。

 通勤途上のクリーニング屋には太った長毛種とスリムな白猫がいた。早朝から店の前に出て日向ぼっこをしている。冬は硝子戸の中で丸まっている。店の老婆も一緒に椅子に座ってうとうとしていた。道行く人が、時々立ち止まって猫に話しかけていく。腰をかがめて猫に触る男性が案外多かった。この店が廃業して以来、馴染んだ街猫の姿をみられなくなったのは残念なことである。一方立派な門構えの内科医院の玄関先に、大きな茶色のトラ猫が住んでいる。医院の看護師がマメに掃除をし、寝床を整え、定時に餌を与えている。近所の人達には見慣れた光景だ。この猫は縄張りの中を巡回し、その日によって居場所を変える。電柱の脇に寝そべっていることもあれば、大きな家のテラスからあたりを睨んでいることもある。気が向けば通行人の足元に来て周りをぐるぐる回ったりする。

 ある日、大きな箱を抱えて途方にくれている親子と出会った。すれ違いざま覗くと、箱の中には仔猫が四匹入っていた。思わず「どうなさいました?」と話しかけると、「置いてあったんですよ、この箱。放っておくわけにもいかないから、とりあえず連れて帰ろうかなと。このままじゃ保健所送りでしょう」と言う。確かに殺処分は免れまい。「四匹も大丈夫ですか?」と聞くのへ、「友達にも声をかけて、何とかします」と勇敢な人だった。

 先日思い立って殺処分になる手前の猫を世話し、貰い手につなぐ「保護猫カフェ」というところへ行ってみた。自宅を開放し、予約制で猫を見たい人・猫と遊びたい人を受け入れ、引き取りたい人には猫飼いの条件を審査して詳しい面談の上譲渡する。そのお宅へ一歩入って驚いた。10畳ほどのスペースをケージがぐるりと囲み、それぞれの中には手のひらに収まりそうな仔猫が入っている。床では大小さまざまな猫たちが気ままに遊び回っている。来客の方が身を縮めて自由奔放な猫たちに取り巻かれ、嬉しそうな・困ったような表情を浮かべている。「もしご縁があればどうぞ里親に」と言われた。

 私自身は既に譲渡の許される年齢制限を超えている。よく面倒を見れば近頃の猫は15年以上生きる可能性が高い。下手すると猫が飼い主より長生きするか、飼い主共々老いて、果ては老老介護に至る。それを覚悟の上で、引き取るかどうか決めなくてはならない。私はこれまで遠くから眺めて満足していた猫を飼うことにした。娘が引き取り人代表を名乗り出た。

 それから急遽自宅を猫が住めるよう整備し、必要なものを揃え、「猫カフェ」主催者と何度も連絡を取り合い、ついに二匹の猫たちがやってきた。二匹とも「多頭飼い崩壊現場」から救出された、しかも出産直後の猫たちだった。母娘かもしれず姉妹かもしれない。二匹はこれまでも仲が良く、共に授乳していた。二匹一緒は飼いやすいという。とはいえ一匹は2歳半くらい、もう一匹はようやく1歳になるかならないかの幼さだ。

 かくて、自宅の居間が猫たちの居住空間となった。二匹は一生をここで過ごす。私はこの猫たちと生涯暮らす。人でも猫でも縁は異なもの。そういう運命にあったのだろうか。Silky voiceで餌をねだり、エノコログサに跳ね回る。やんちゃもするが日中は眠りこけている猫たちを見ながら、私は妄想の時代が終わったという不思議な感慨に捉えられている。

 

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