初出
朗読文化研究所通信 
「朗ら朗ら」第39号
2019年 9月 20日

喫茶古 02

猫と幸い

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02 「猫と幸い」

北田 敬子

一年前に我が家では「保護猫カフェ」から二匹の猫をもらい受けた。「多頭飼育崩壊現場」というところから救い出された猫たちだった。キジトラを「にっき」(肉桂)、キジシロを「はっか」(薄荷)と呼ぶことにした。それまで私は一度も猫を飼ったことがなかったので、おっかなびっくりの毎日が始まった。

猫を飼い始めたというと「いいなあ、可愛いでしょう」と形相を崩す人がいる一方、「私は犬の方が好き」とそっけない人もいる。眉をひそめ、「年取ったらどうするの?介護、大変ですよ」と警告する人にも出会う。猫の寿命を20年前後とすると、飼い主の方が先に要介護になる場合もあろう。重大な責任を引き受けたものだ。「戸外に出さない・最期まで面倒を見る」というのが、猫譲渡の必須条件だった。

保護猫とは、保健所に引き渡されて殺処分を待つばかりだったものや、飼いきれなくなって放逐されたもの、生まれてすぐ捨てられたものなどを、ボランティアベースで活動する個人や団体が、譲渡を目標に一時的に飼育している猫たちのことを言う。「猫カフェ」には猫と遊びたい人、猫を欲しい人々が集う。営利目的のカフェもあるが、多くはボランティアの献身的な努力で成り立っている。

犬や猫なんてペットショップで買えばよいのではないかと思う人も多いだろう。あるいは「血統書付き」をブリーダーから直接手に入れたり、知人同士で譲り合ったり、たまたま拾って育てたりと、出会い方は様々だと思う。但し、昨今生き物の取引が問題になることも多い。劣悪な環境で生命の尊厳など顧みず、動物にとって過酷な「量産」に走り、ビジネスが破綻して売れ残ったペットだけ置き去りにしたというケースも耳にする。人間でさえ生き辛い世の中に、動物とて生き易いわけもない。

にっきもはっかも保護された時には身ごもっていた。「カフェ」でそれぞれ5匹ずつ出産した。私と娘が訪ねたときにはまだ授乳中だった。二匹の関係も母娘なのか、姉妹なのか判然としない。ただはっかの方が一年くらい年長で、にっきはようやく出産可能になったばかりのごく若い猫。にっきは余り育児に熱意のないはっかの分まで子猫たちに授乳していたというから、経験とは別に猫なりの性質があるようだ。子猫たちの乳離れと同時に二匹が我が家に来た直後、にっきは豊満な胸をしていた。

一週間もすると母猫の特徴は消え、にっきは子猫のように甘えたりいたずらしたり、奔放にふるまい始めた。はっかは比較的おとなしく、あたりを窺いながらゆっくりと新しい環境に警戒心を解いていった。はっかがひょいと飼い主の膝の上に飛び乗るようになるまでには一年近くかかった。二匹とも外からの訪問者にはなかなか打ち解けない。人の気配がすると、一目散に背の高い棚や冷蔵庫の上に駆け上る。目にもとまらぬ早業で高低差を移動する猫の敏捷性には驚かされる。動くものを追う習性や、人間が魚を料理し始めた途端に寄ってくる嗅覚の鋭さにも驚嘆する。獣医師から体重を増やさないよう厳命されているので、猫たちには乾燥キャットフードを規定量と、毎朝器に入れ替える水だけしか与えていない。猫たちにとっては我が家の居間と台所スペースだけが生涯の生活空間となった。

猫たちは空腹になれば餌をせがみ、腹が満たされればよく眠り、じゃれ合い、取っ組み合いもする。排泄の世話を怠らなければ、留守にしても平気だ。二匹を相手にしながら、私はふと思う。猫にとってこれは望ましい環境なのだろうか。家猫として保護され、長寿を目指すことは幸いなのか。一昔前の猫のように、気ままに家を出入りして近隣をうろつき回る自由はない。避妊手術を施され、逃走時の個体識別用マイクロチップを埋め込まれ、食事制限を受け、予防注射は欠かさない。人間の愛玩動物として進化してきた猫の、これが究極の形なのかと問うてみる。大きな瞳でまじまじとこちらを見つめ、得も言われぬ愛くるしい鳴き声を立て、柔らかな毛皮で身を摺り寄せてくる猫には、人の心をとらえてやまない魅惑的な力がある。これが人の片思い(エゴイズム)でなければよいが。猫を前に、生きとし生けるものの命運に思いを馳せる日々が続く。

 

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