風のたより


12. 薫風



流れよ清き流れよ はじめの滴を忘れても
流れよどちらからともなくまじわり合って流れてゆけ

中島みゆき 「清流」

風薫る五月。この国の言葉にはどこまでもどこまでも季語がまとわり付いています。自分だけの表現を探り出す手がかりにするか、それとも寄りかかって醸し出される連想を引き出す技を磨くか、いずれにしても書き手の語彙が試されることに変わりありません。その意味でいうと私の書くもののなんとフラットなことでしょう。味も深みもあらばこそ、散文を31文字にちぎり取っただけの歌が並びます。それを自覚しつつ尚書き連ねるのは、スナップショット感覚のメモを取りたいからです。現代っ子達はいつも(デジタル)カメラを持ち歩き、どうということのない日常生活の一こま一こまを(動)画像に残して交換しあったり記録媒体に納めたりするようです。フーン、それならこちらは文字と静止画像の一枚か二枚でいってみようではありませんか。一人で歩く街、たまにふらりと出かける川辺、夜更けのモニターの前、賑わう店の片隅で私は風に耳を澄まします。とても若かった頃の華やぎを遠く離れ、少し低くなった体温で、ちょっと疲れた足を休めながら聞こえてくる風の音、目に飛び込む色、胸に広がる思いをことばに残してみたいものです。個人的な狭い世界からいくらか広い地平へとことばを押し出すためのウォーミングアップ。感傷を生のことばのまま書くことには流石にためらいを感じるくせに、このスナップ、構図が無茶苦茶ですね。ショットの集積が全体として何かを描くようになるまでには、よほどことばを鍛えていかなくてはなりません。でも今言いたいことはただ一つ。五月は気持ちのいい季節です。降っても照ってもものみな美しい。どんなヘボカメラマンにも平等に降り注ぐ陽光に感謝し、命の豊かさを愛おしみ、風にことばを吹き流します。


雨の薔薇クリーム溶ける草むらに子鬼潜むや光が踊る 柿の葉の若きみどりは重なりてざわめく心見下ろしており ネギ坊主三つ並んで塀の上顔出す朝に霧雨の降る 一帯に小さき飛行物体を遊ばす野原綿毛天国 多摩川へ娘伴う記憶裡に幼き我の父の声聞く 奔流の削り出したる岩に座し時の流れを水に追い行く 天と地を分かつ流れか切っ先を海に定めて光と走る 清流は淀みの底も露わにし不動の魚影玉石にあり 緑陰にこぼれる白きエゴの花踏みしだき得ず迂回する径 ゴージャスな五月の風になぶられて花みな開き命惜しまず 乙女らの肢体眩しきあの歳の持て余したる熱をたぐりぬ どこまでも自転車こいで駆け抜けし五月の朝は恋の始まり 地下鉄を出て息を呑む陽光の街静止画と映る幻覚 女らは笑いて語るへ巡りの潮の暦長き月日を 昨日まで赤子たりしが初めての訪れ告げる女と向かう 背の丈を抜かれる日さえ間近にて母と娘のクイックターン さりげなく問う我もまた父母の産みしものかと子はいぶかしみ 青々と川は流れて海に行き空に上りて雨と降るかな         *   * * 鉄橋に爆撃されしバスは散り川の畔に残れる小腕 戦とは無縁の国に住むという夢破るらし空の轟音 核散れば全て消え去るデータよとパソコン指して深夜に語る 虚しきを積み上げてなる文明の利器を至宝の如く思いぬ 三台に机上を占領されて尚サイバー空間無限と夢想 * * * 刻々に千変万化早瀬見て不動の巌苔生しており もの思う弱みを捨てて自由にと望む心をわたり行く風 やわらかき心を保つ身であれとことば書くほど淵に沈みぬ 麗しの五月の街を歌う友ライブハウスにパリを呼び込む 伴奏のピアノの指はどことなく流れる川に似るなめらかさ 喝采の求めるままに再びの愛を歌えり友なる女 止まり木の端で聴く我歌う友小娘なりし時の隔たり 愛という魔物求めて歌い継ぎことば重ねるこれも生業 はかなさも歓びもみな包み込む愛の歌聴く暗闇の中 綿シャツで風の中行く五月にはひとりひとりの姿凛々しき 木々の上カラリ風吹く蒼穹にことば飛ばして行方求めず 薫風に五月生まれの人はみな育まれしと密かに祝う


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