風のたより


10. 冷たい春風


私たちは春の中で わからないものに苛立っている

通り過ぎた春のために 失ったものを怯えている
もしも一人だったならば もしも孤独だったならば
もしも虚ろだったならば もしも自由だったならば
春は過ちの源
私たちは春のために 失ったものを怯えている

  中島みゆき 「私たちは春の中で」


明るく鮮やかな彩りに包まれる春は、実際にはかなり残酷な季節ではないでしょうか。猫たちが夜な夜な鳴こうと、鳥たちがけたたましく囀ろうと、花開き青葉が茂ろうと、心は逆に深く沈んでいくのが春です。ひねくれているかも知れませんけれど、いつもいつも新鮮な思いで春を迎えられる訳ではないのが人間の悲しいところです。賑わいの中で、華やぎの中で余計に一人をかみしめてしまう春。けれども、やはり春の美しさは新生にあります。そのギャップの中でバランスを取るのに四苦八苦する心を、飾りのないことばにしてみたらどうなるでしょう。街の中で、人の中で、あるいはひと時海辺に旅して、変哲のない日常を少し彩色してみました。淡い色合いのスケッチです。浅い春の寒さは冬の寒さとは違う厳しさを持っていることに気付かされます。春自体が癒しの季節でも許しの季節でもないことを見つめるうちに、いつしか生きとし生けるものへの愛おしさが心に満ちてくるようです。街を抜け出して海原に向かい合ったときにあまりの強風になぎ倒されそうになりながら、見果てぬ青を全身で受け止めてことばの無力さを感じました。うららかな春とはとても言えません。ただ、春は歌わずにいられぬ季節であることだけはどうも確かなようです。


木蓮を灯火と仰ぐ雨の宵しめやかなりし思い埋めて 細き枝に幼子の手の若芽吹くその青き色胸を染め抜く 吊りポットパンジー溢れ人招く開かれし門ゆかしと過ぎぬ 枝先を光にかざすレース織大樹に向かい祈り新たに 春の日に子をもうけたり若からぬ母となり初む我が身なつかし 手に余る黒髪を梳く朝毎に娘のうなじ匂ひ立つなり 桜かと引き寄せられて見上げれば散り際らしき辛夷ひらきぬ 夕まぐれキャベツ畑の片隅に身を寄せ合いて黄水仙あり 咲き初める頃の期待は恋に似て枝揺する風桜花は受けぬ 花見時花見る人に加わらず我が内なる樹開けと願う 高架より眺める平野桃色の薄膜を張り化粧覚えぬ        *   * * 荒磯に烈風避けて身を潜め窪地で向かう白波の爪 カモメらは逆風に乗り鋭角に翼広げて朝を切り裂く 一羽だけ宙に舞い出るカモメなり音無き時をカメラに封ず 写真にはただ色彩の断片となりて無言の群青の海 沿岸にイルカの背鰭弧を描く幻覚の春岩場に立てり 海を見るそのためだけに乗り継いで辿り着きたる岬のはずれ 白波は風の仕業ようねり来る海の轟き草むらで聞く 淋しいということばなど吹き千切れ芯まで凍え海を見ており 独りなる我にかえりて海に向き憂いの街を吹き飛ばす朝 海風に凍れるからだ湯に伸ばし水に生まれた命味わう 浜辺行き輝きの海縫い繋ぐ路線バスなり果てなく走れ 花畑花摘む人ら点々と花に埋もれてまだら色なり 渚へと我を誘う欲望の押さえ難きを何に例えむ 香草を注いで蝋燭固めればハーブの館我がものとなる ラベンダーリースに編んで飾り付け父に捧げる娘はにかむ 花束を抱えて駅に向かうとき背にした海を振り返えらざり せめてもと海の香りを瓶に詰め土産屋に買う我は旅人 * * * そのことは聞くなと言いて頑なに失える恋守る人かな 春なのに悲しいという友に宛て春だからよと書きつ悔やみぬ ことばでは癒せぬもののあるを知る我の誠は沈黙にあり 若さにも終わりは来るとつぶやきし人の若さを見つめておりぬ 手を延べて暖められるものならば如何に容易き春の傷跡 人を得る困難を詠む啄木の歌蘇る痛み忘れず 癒えたかと問えば未だと俯ける人の恋なり花の散りゆく 遙かなる国へ旅する夢語り現葬る共犯者たり 相応しき花を求める人あれど花ならぬ身の救いたり得ず 悲しみの深き在処に届かざるこの掌の遠きかなしみ


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