徒歩記 3

東京の水流
玉川上水を中心に

 

 

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■ 玉川上水流域で暮らす

玉川上水縁に多感な年代を過ごした後、私が嫁いでいった先も偶然玉川上水流域だった。杉並区と世田谷区が境界を接するあたり、久我山と北烏山の間を上水は流れている。上水脇の緑道はここでも住宅街の間に鬱そうとした一筋の小径をつくり、誰にも分け隔て無く静かな散策路を提供していた。この道を辿れば三鷹市の井の頭公園、吉祥寺の街まで難なく徒歩で行ける。休日といえばここを歩いた。幼い娘を自転車に乗せて走ったことも数限りなく、電車賃もガソリン代も使わずに森林浴と散策を楽しむことが出来る環境に感謝の他無かった。起伏のない平坦な真っ直ぐな道である。

東京を流れる水路のあらかたは、護岸工事により川辺はコンクリートで塗り固められている。ところがこの玉川上水は、そのような「近代化」の弊を免れた。殆どの区域で掘りっぱなしの赤土が両岸に露わである。もちろん必要に応じて要所には補修が施され、流れを守る手だては講じられているのだが、土に馴染む木製の杭が打たれ、土嚢が積まれ、江戸時代に掘られて以来の姿にとても近いのではないかと思う。ところが、現実には埋め立てて道路を建設しようと言う計画の持ち上がっている区域があり、三鷹から久我山近辺は「放射五号線」の通過する地域に当たっている。しかし、幸いなことにこれまでのところ地元住民の玉川上水を守りたいという熱意がそれを許していない。今でこそインターネットで検索すれば即座に状況が見えてくるが、迂闊な私は当時そのような運動があることにも気づかず生活に追われ、ただ緑陰の恩恵を受けているだけだったことを白状しておく。玉川上水の保存は将来に託された課題である*。

1990年代初め、猛烈な地上げ攻勢に各地で人々が立ち退きを余儀なくされていた頃、私たちの住んでいた借地も地主に返却を求められた。とりわけ義母は、戦後青森から上京して住み着いたはずの土地を40年余り後に出て行かざるを得ないことで相当な苦痛を強いられた。ようやく探し出した次の住処は東村山市。義母には見も知らぬ異境に思えたようだが、私にとってはかなり生育地近くに逆戻りしてきたようなもので、郊外での暮らしに異存はなかった。住み始めてしばらくすると地理のあらかたが分かってくる。嬉しいことに近所には野火止用水が流れていた。これも玉川上水の分流だと思えば親しみが湧く。

野火止用水は1655年、川越藩主松平伊豆守信綱によって開削された、小平市から埼玉県志木市の新河岸川に流れ込む全長25kmの水路である。東村山市近辺では暗渠になっている部分も含め、ところどころに公園・緑地を擁し、やはり格好の散歩道となっている。既に生活用水路の役目を終えたとはいえ、こうした水辺は街に潤いを与える。また四季折々に変化する岸辺の植物の恵みがいかに大きなものか、日々この道を歩くとよく分かる。日だまりのベンチでお年寄りが休憩している。子どもたちが脇を駆け抜けていく。浅い川の流れには鯉が繁殖し(放流は固く禁じられているのだけれど)、道行く人が立ち止まって覗き込む。時折コサギが舞い降りて悠然と流れの中を歩いている。マガモが住んでいる場所もある。両岸に生い茂る雑草木を観察するのも楽しい。上流までずっと歩いてみたことがあるが、小学校が蛍の育成を試みている場所もあった。

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