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2002年の「情景描写」 「忍耐と寛容」(6) 祭 8/4 「忍耐と寛容」(5) 会話 7/14
「忍耐と寛容」(4) 買い物 6/23 「忍耐と寛容」(3) 刻一刻 6/14 「忍耐と寛容」(2) 閃光 6/3 「忍耐と寛容」(1)マスクの下 5/18
ホームレス 2/10 築地再訪 1/20 遠い呼び声 1/9 バトル・ロワイアル 1/3

2001年の「情景描写」 写真の少女 12/24 あの日 11/28 笑顔の女達 11/17
ラ・フランス 11/11 転倒 11/6 美しい老い 10/26 初体験 10/18
別れ 10/14 リバイバル 10/11 見える目 10/10 「情景描写」開設に寄せて 10/6

「忍耐と寛容」(6) 祭


8/4(日), 2002

動悸が速くなっているのだけは確かだった。不安とか怖れとか、期待とか歓喜とか、名前の付く感情は何一つなかった。よく人が地に足が着かない感じと言ったり、どこをどう歩いてそこに至ったのか記憶にないなどというのを聞いたことはある。一瞬の宇宙遊泳、無意識の恍惚。その時「あ、ジュピターだ」と思った。病院の一階ホールに微かに鳴り響いているバックグラウンドミュージックは確かにモーツァルトの交響曲「ジュピター」だった。二十数年前、結婚披露宴の最後にあの曲を選んだ。

私は築地に眼科の診察を受けに来ていた。前回、瞼のひどい腫れを見て眼科医に「再発かも知れない」と無造作に言われ、MRIの結果が出てからもう一度と予約してあったのだ。どんなにステロイド系の点眼液をさしても腫れは収まらず、殊に毎朝起き抜けの顔は我ながら別人のようだと思っていたので、再発を宣告されても驚かないつもりだった。だから呼ばれて診察室に入り、コンピュータ画面を盛んにクリックしながら断層写真を眺める医師の前で、覚悟に似たものは付いていた。それが、「今のところ、病巣の拡がっている形跡はありませんね。」と言われてむしろ拍子抜けしたといってもいい。

「は、あの、では、化学療法に入る件は・・・。」
「今はその必要ないでしょう。」
「では、この瞼の腫れているのは・・・。」
「放射線治療の後遺症が続いているようです。」
「目薬だけでいいのですか。」
「そうですね、他に特にやることはないでしょう。次の診察日を決めておきましょうか。」
「へい、あの、その、来週でも。」
「いや、夏が終わってからでいいですよ。」

九月は遙か遠い将来のように思えた。毎週毎週、明けても暮れても築地通いの半年余りだったのに、一ヶ月以上もお暇をもらえるなんて。何が何だか分からないまま、私は会計カウンターに向かって歩いたというわけだ。窓口の事務員が、重症患者にも執行猶予付きで一時解放される患者にも全く態度を変えずに接するのが不思議な気がした。会計表を渡して支払窓口に呼ばれるまでの僅かな合間に、ジュピターが私の全身を照らした。

病院の外は真夏日。正午の太陽が高い。さて、真っ直ぐ帰るかそれとも久しぶりに少し歩いてみようか。この暑さの中を歩き回るのは尋常ではない。でもほんの少しだけなら。今まで何ヶ月も、たとえ外がどんなに良い季候であろうと、歩きたいと思いもしなかった。体力の温存の為にとにかく早く帰って体を休めるか、消耗の少ないうちに次の目的地へ行くかという判断しか選択肢になかった。歩くといっても、どこへ行こう。ふっと川向こうのことが思い浮かんだ。いつぞやまだ寒い頃、隅田川の岸辺を歩きながら対岸にいつか渡ってみようと思ったっけ。でもいつそんな気持ちが湧くか分からないな、と自分に言い聞かせた記憶が蘇る。そうだ、月島にでも行ってみよう。多分、今を逃すと「その時」は永遠にめぐってこない。私は川に向かって歩き出した。

勝鬨橋を対岸まで渡りきるのは初めてのこと。いつも手前をウロウロしていた。昔開閉したのはこのあたりかしら、などと中央にさしかかった時足を踏みならしてみたり、きらめく水面を眺めたり、橋の上の気分はいつも特別だ。隅田川縁の小学校の屋上に立派な時計台があるのに気付いた。橋を渡らなければ一生知らずにいた時計。空が青い。夏の青は特に深い。前に見た地図を思い出しながら、見当だけ付けて月島方面に歩く。表通りには陰らしきものが殆どない。帽子をかぶっていて良かった。同僚達に「この季節で良かったわね」とよく言われる。「帽子をかぶっていてもおかしくないわよ」と。頭髪を失ったところを隠すための帽子だと知っている人の目には痛ましく見えたのか、あるいは私の格好はどこか異様だったのかも知れない。だが、この頃他の人の目は殆ど気にならなくなっている。比較ではないのだ。私は、私。生きていればそれでいい。

程なくさしかかったのは、隅田川と朝潮運河を繋ぐ「月島川」。その名も「月島橋」の欄干にもたれて、しばらくあたりを眺める。えんじ色の水門、係留された釣り船、岸辺の柳が風に揺れ、その下で釣り糸をたれる人の影。一つ向こうの橋の上を時折車が行き来する。川風はあるんだかないんだか、こう日が高くちゃかなわない。名物もんじゃ焼きの店でも探して腹ごしらえしながら涼もうか。そう思い直してカンカン照りの商店街に踏み込んだもの、人影はまばら。商店と商店の間にある路地を覗くと、そこだけ陰が濃い。一度は路地裏のもんじゃ焼き屋の前にたってみたものの、普通の家のようで、どこが入り口だか遂に分からなかった。

表通りに戻り、思い切って一軒の店の扉を開けると、主が顔を上げた。

「いらっしゃい、何か。」
「何かって、もんじゃ焼き、食べられないんですか。」
「あ、今祭なもんで、やってないんですよ。」
「え、もんじゃ焼きやさん、全部お休みですか。」
「いえね、ウチは祭の集会所になっちゃったもんだから休むけど、ほら、向かいのあそこの店はやってます。あたしから聞いてきたって、そうおっしゃってくださいよ。」
「そうですか、じゃ、向こうへ行ってみます。どうもありがと。」

ははあ、商売より祭、か。がらんとした通りを渡って私は向かい側の店に入った。昼下がり、この熱いのに鉄板をジュウジュウいわせながら何組かの客がもんじゃ焼きを食べている。ソースの焦げる匂いが鼻を突く。「お一人さん」と声がかかって、私は小さなテーブルについた。出された冷水が美味しい。もんじゃ焼きなんて普通は一人で食べるものじゃない。つつき合って食べるところが美味いのだろう。だが、常識は常識。人にはそれぞれ事情がある。本日はこれが私の祝い膳。たとえ執行猶予付きでも。紅ショウガ入りのもんじゃは、辛かった。せめて餅やチーズでも入れたのを頼めば良かった。でも後の祭り。汗をかきかき小ベラですくって一人黙々と食べるもんじゃ焼き。それもまたよしとしよう。

地下鉄の駅に吸い込まれるまで、私はまたぶらぶらと商店街を歩いた。アーケードには観光用に三角屋根がついていて、小綺麗だけれどもどこか気取ってこの町にはそぐわない。雑然とした裏路地の方がこの町らしい。だが、余所者にそこの事情なんか分かるものか。祭提灯の赤がくっきりと青空に映えて、夏本番。いつまた病院に呼び戻されるか分からない。でもとりあえず、翌週の血液内科と放射線科の診察で「逆転判決」が出ない限り、ひとまず私は一月以上のお暇をもらえた。今はそのことだけ考えて、放流された魚の気分でいればよいのだと、私はその瞬間を大事に胸の中で握りしめていた。

川に架かった橋を渡ると、見知らぬ町へたどり着く。思い切って渡らなくては行けないところがそこにある。病院へ通わなければ、来られなかった町かも知れない。さまよい歩く私の心が、病気と一緒にひとときゆるむ。まつりばやしが聞こえるようだ。


「月島界隈」の写真はこちらをクリックしてご覧下さい。

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「忍耐と寛容」(5) 会話


7/14(日), 2002

白いブラインドの隙間から新宿御苑の森が見える。その向こうににょっきり聳えている、まるでエンパイアステートビルディングのような建物、あれは何だろう。何しろ新宿の町に来なくなって久しいので、次々に出来る高層ビルに私は疎くなっている。御苑の森をセントラルパークと見立てた借景にミニマンハッタンを気取ったのかと、思わず苦笑。仕上がったヘアウィッグを取りに三週間ぶりに訪れた会社の一室で、そんな風景を私はぼんやり眺めていた。ここは普通のオフィスとは少し雰囲気が違う。さりとて美容室でもなく、ましてや病院とは似ても似つかない。客同士が顔を合わせないように仕切られた個室がいくつかあって、必ず先ずお茶が出る。この季節に相応しいガラスの湯飲み茶碗に冷えた緑茶。テーブルの上には数週間前のファッション雑誌。その下に挟まれた会社製品のカタログ。心躍る買い物とはほど遠く、品物が品物だけに代金だけ払ってさっと持ち帰るわけには行かない。部屋の片側に鏡台があることが、これから行われる取引の段取りを予告していた。

担当の女性が長い髪を揺らして颯爽と入ってきた。贅肉の微塵もない痩せ形で、しかも営業に逞しく出歩いている彼女に華奢な印象はない。私より数段若いのは言うまでもないが既に大勢の顧客を相手にしてきたであろう自信と貫禄が漂う。トップもボトムも黒に統一し、濃いめの化粧が大きな目を引き立てている。やはり私は直ぐ他人の「目」と「髪」に視線が行く。彼女のスリムなボディラインも魅力的だったが、毛先をシャギーにした茶色のロングヘアが眩しい。この会社に幾度か電話した時応対に出た男の社員の使う敬語は滅茶苦茶だった。その時点で会社に対する一抹の不安を覚えたものだが、この女性社員の言葉遣いに破綻はなかった。客相手に様々な場面をくぐり抜けてきたであろう彼女のキャリアがほの見える。私は初めて少し気を緩めた。

「お待たせいたしました。今日もお暑いですね。ご予定、大丈夫でいらっしゃいましたか。」
「ええ、昨日お電話いただいた時には、変更をお願いしようかと思ったのですが、よく考えてみましたら、早く済ませた方がよいと気付きましたので、別の用事をキャンセルしました。」
「さようでしたか。申し訳ございません。」
「いえ、結構です。」
「では早速。これができあがりました品物です。」
「まぁ。本物の髪の毛のようですね。」
「はい。自然毛と人工毛を半々に使っておりますので、かなりナチュラルに見えるかと思います。こちらにお座りいただけますか、使い方をご説明いたします。」

私は鏡の前に座った。彼女は出来たてのウィッグを台の上から取り上げると、くるりと返して人工皮膚の状態、被った時頭のサイズにフィットさせるための調整ベルトの使用法、、手入れの仕方などを簡単に解説すると、先ず私の頭にネットを被せた。私が失ったのは、放射線が抜けていった後頭部に今のところ限定されているので、ウィッグを被るには自毛がいささか邪魔になる。変装する役者も斯くやと思う下ごしらえの後、私は恐る恐る特注品を被ってみた。「これが私?」と思うくらい似合わない。頭が倍に膨張して見える。担当社員は心得た様子で、そのまま私にビニールマントを着せカットを始めた。

「美容師さんのお仕事もなさるんですか。」
「はい。免許を持っていることが当社の社員募集の条件でしたから。」
「なるほど。これは美容のお仕事ですわねぇ。」
「そうですね。できあがったカツラはお客様のお顔に合わせて調整しませんと、自然な感じには仕上がりませんので、長めに作ってあります。」
「ではこのお仕事に就かれる前は、美容師さんでいらしたんですか。」
「はい。やはり実際に美容の現場にいたものでないと分かりにくいこともございますので。」
「それはそうでしょう。良いお仕事を見つけられましたね。最近需要が多いのではありませんか。」
「そうですね、ご注文なさる方は結構いらっしゃいます。」
「昨日のお電話で時間変更と伺った時、外回りに出られるのかしらと思ったのですが、お客さまのご自宅までお持ちになることもあるのでしょう。」
「はいございます。それから病院へ直接ということもあります。本当はこうしてカットさせていただくことなど考えますと、直接当社においでいただくのが一番なのですが、中には具合のお悪い方もいらっしゃいますし。」

その通りだと私は思った。私とて必ずしも体調が良いわけではない。放射線治療が終わった直後は、極度の疲労感と目のトラブルで仕事を休んだ。徐々に目の周りのやけど状態が引き、腫れも収まってきた頃復帰したものの、元通りというわけには行かない。バンダナを巻き、「もう大丈夫」のような顔で教室に出ていても、絶えず目の周りに不快感が漂い、鏡の中の顔は全体的に腫れている様に見える。二週間前にCTスキャンを撮りに行きがてらがんセンターで眼科の主治医に予約無しの診察を申し込んだら、午後の時間であったにもかかわらず直ぐ診察室に通された。国立病院でこんなことがあるのかと、私は半ば諦めていただけにひどく驚いたものだ。瞼の腫れと目脂を訴えると、医師は「放射線治療の副作用の結膜炎のようだな」とつぶやいた後、診察もそこそこにコンピュータで私の受診歴を調べた。

「なんだ、ちっとも眼科の予約を取っていないじゃありませんか。一週間に一度は見せに来なくちゃダメでしょう。」
「はぁ。私は先生から血液内科に回され、そこから放射線科に回され、放射線治療にかかった段階でてっきりしばらく先生の元を離れたのだと思っていました。どなたも眼科に行くよう指示なさいませんでしたので。」
「それじゃ何のために眼科があるんだ。」
「えー、血液の先生にこの後眼科へ回らなくてよろしいんでしょうかと伺いましたら、普通は全部治療が終わってからですとおっしゃいましたけれど。」
「生真面目すぎるんだ、あの人は。」
「これはどうも済みませんでした。私も先生の所へは伺いたい伺いたいと思っていたんです。」
「仕方ない。薬を処方しておきます。次の検査の時にこっちの予約も入れておきましょう。」

何だか叱られて藪蛇のようでもあったが、貰ったステロイド系の点眼薬のおかげで瞼の腫れや目脂はかなり改善された。やれやれこれで一安心、後は検査の結果を待つだけと安堵したのも束の間、点眼薬が切れてしばらくしたある朝、私の両の瞼は嘗て無いほど膨れた。垂れ下がらんばかりになって、視界が狭まり、今回の病気になって以来最大級の危機感を私は抱いた。迷わず病院へ直行したことは言うまでもない。予約無しの再来窓口で手続きを済ませると、血液内科でも放射線科でもなく私は眼科へ行った。予診を兼ねた視力検査の部屋で、技師の女性が「なぁに、どうしたの、お岩さんになっちゃったの」と軽口を叩く。大病院勤務を笠に着た、低俗な人間のことば。病む者の苦しみや不安への感受性を失った野蛮な精神。「え、まあ」と答えるくらいが相応しい。だがその後の、普段から寡黙な眼科医の一言は強烈だった。

「再発かも知れませんね。」
「は、あの。」
「放射線は瞼には余りかけていないから。」
「え、でも、先生、触診なさって何かさわりますか。」
「いや、しこりはないですけれど、可能性はあります。」
「では、今度のCTやMRIの結果に出ますか。」
「まあそう言うことです。」

単刀直入だけが取り柄だ、この人は。また点眼薬が出てその日はお終い。私は午後の仕事をキャンセルし、帰宅して布団を被って寝た。もしこれから化学療法へ移行していくとしたら、体力が要るだろう。目をつぶれば何も見えない。イヤなことも怖いことも。再び病気と向かい合うには気力の充実が第一。疲れていてはそれもかなわない。私は直ぐ眠りに落ちた。

「如何でしょう。このくらいカットしておけば、かなり軽くなったと思いますが。」
「本当だわ。いいですね。久しぶりに美容院に来たみたい。このところ行っていなかったから。」
「ではついでにお客様の襟足の所の髪の毛も少しお切りしましょうか。」
「お願いします。美容院に行きにくくてね。」
「そうかも知れませんね。最初から説明しなくてはなりませんものね。」
「そうなの。先に話しておけば別だったんですけれど、言い出しかねて。」
「またおいでいただければ、髪の毛が元に戻るまで、いつでもお切りいたしますよ。」
「どうもありがとう。もしかするとその前に一度全部抜けるかも知れないけれどね。」
「そうですか。でも、お薬で抜けた場合は必ずまた生えてきますよ。お客様の中には精神的なストレスで、円形脱毛症になられたり、無毛症の方もいらっしゃいまして、そういう場合はなかなか難しいのですが。」

そのことばを聞いた時、私はハッとした。とかく病気になると人は自分を中心に何でも考える。自分の得た病を振り払うことばかり考える。この会社の顧客はがん患者だけではないのだ。病んでいるのも自分だけではない。名も知らず顔も知らず、一生出会うこともない数限りない人々と、瞬間私は目を見交わしたような気がした。

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「忍耐と寛容」(4) 買い物 

6/23(日), 2002

土砂降りの交差点で私はタクシーを拾った。
「数寄屋橋のプランタンデパートへ。」
車は渋滞する晴海通りを銀座へ向かう。フロントガラスを打つ雨足が先行車のテールライトを滲ませる。濡れ鼠になりながらも、私はほっとしてシートに沈み込んだ。同じ道をカメラ片手に歩いたのはほんの数ヶ月前のこと。あの頃は呑気なものだった。何が我が身に起こるか想像も出来ずに、街を旅行気分で眺めていた。今回の銀座行きには目的がある。デパートで「被り物」を物色し、いいものがあれば是非買わなくてはならない。予想通り放射線治療で抜け始めた髪の毛は止まるところを知らず、遂に後頭部には見事な「空き地」が出来てしまった。治療とは別に、副作用のケアをするのは患者本人の自己責任となり、病院の帰り道に私は銀座へ買い物に出ることにした。「プランタン」を選んだのは「三越」の仰々しさを避けるため。少しでも気軽にさり気ないものが欲しかった。

「ヘアウィッグは、どこかしら?」
尋ねる私に若い店員は、先ずことばの意味が分からない様子で首を傾げ
「ヘアピースなら、アクセサリーの向こう側にございます。」
「そう、どうもありがとう。」
なんでもない買い物よ、という振りをして私は示されたコーナーへ行った。だが、頭にすっぽり被るようなものは置いていない。どれもこれも、長い髪を束ねた女性がその上にピンで留めてアップスタイルを際だたせるためのもばかり。よく考えてみれば、今時の女の子達がわざわざウィッグを被るわけがない。彼女たちは多彩な色に染め変えてヘアスタイルを楽しむのだった。タクシーで乗り付けた私はやはり古い。

だがせっかく来て獲物ゼロは勿体なすぎる。ヘアウィッグは諦めて、私は帽子売り場へ歩み込む。夏が近くてよかったと思った。さして広くはないけれど、小粋な帽子が沢山ある。数日前に近所のスーパーで慌てて買った綿100%のキャップをさっと脱いでは、あれこれ試す。その日鏡に映る顔は、医者に症状を見せるため完全なノーメークで、とても銀座を歩くような状態ではなかったのだが、帽子を目深に被るとそう気にもならない。オードリーヘップバーンが被っていたような、というのは大袈裟にしても濃いベージュで幅広の庇のついた、シフォンのリボンが巻いてあるなかなか素敵なものを発見。大枚\8,000をはたいて悔いなし。でもこれを終日被っているわけにはいかない。いくら室内で女性の帽子が許されているとしても、だ。

そこで、今度はスカーフとハンカチーフのコーナーへ。夏のスカーフは流石に少ない。エスニック調の長めのものが流行っているらしく、よほどオシャレな人ならばくるくると上手に頭に巻くのだろうが、私に出来る芸当ではない。あれかこれかと手に取ってみる。日頃のファッション修練が足りないのを猛省。こんな時、想像力が試される。それでも漸く小型の薄い絹のものを二枚選ぶ。重さを感じない、薄い薄い絹。ディスカウントになっていたところを見ると、今時誰も買わない品物らしかったがまあ仕方ないとしよう。ハンカチーフの方がずっとバラエティーがある。こちらは逆に大判のものを物色。この際、日頃縁のないブランドものでも漁ってみようかとセリーヌを二枚購入。自宅ではスーパーのノーブランドで十分だけれど、やはり外に出るときには気張らねば。

という次第でささやかに札びらを切り、私は再び土砂降りの中へ。銀座駅へ向かう途中、全面ガラス張りのカフェで、西洋人の中年カップルがテーブルを挟んで道行く人をゆったり眺めているのを目にした。あんな風にコーヒーを飲みながら異国の風景を見る人もいる。見られている者の事情や胸の内を彼らはどんな風に想像するのだろう。もっとも、カフェで身を晒しながらコーヒーを飲む人々を、道行く人がまた見ているわけだ。彼らの事情や心情を誰が知るだろう。互いに見たり見られたり。私の帽子の内側と、彼らのこころの内側は、同じくらいに未知の世界。それもまたよいではないか。

翌日私はセリーヌを頭に巻いて出勤した。久しぶりの教室で、女子学生が素っ頓狂な声を上げる。
「あら、先生新しい髪型!」
「そうよ、へんしーん、なんてね。ちょっと事情がありまして。これから毎回とっかえひっかえ、ブランドチーフをお見せするわ。」
彼女たちは私の事情を知っている。時々短信がメールで届く。
「先生、目、大丈夫ですか。」
「会うたびに様子が変わっているので、心配しています。」
「休講したのは、病院でしたか。」
どんなに平気を装っても、彼女たち、彼らはとてもよく見ている。せめて教室に出たときにはまともな授業がしたいと願うのに、思うようにいかないことの方が益々多い。だが、どうも授業がうまくいくとか行かないとかは、こちらの思いこみである場合が多いことに漸く思い至る。私が学生の声をよく聞くことが出来るかどうか。引っ張ることと引き出すことの違い。引っ張る力のない時は、引き出す手伝いに努めよう。

あの土砂降りから一転、真夏日が来た。私は妹と待ち合わせて「医療用かつら」専門の会社を訪ねることにした。妹は日傘をさしてやってきた。実の姉妹ながら一緒に買い物など滅多にしない。しっかり者の姉とのんびりものの妹だったはずが、いつしか逆転。どこかぼんやりしている私を引き連れて、彼女が目指す会社のビルを発見した。手慣れた応対をする社員に如才なく受け答えする妹。ヘアウィッグのオーダーメードの話は直ぐにまとまった。思いもよらぬ買い物になった。部分的な「空き地」を隠せばよいのでは、と言う私に妹は
「万が一を考えておいた方がいいと思う。今後化学治療でもして、全部の髪が抜けたときにも対応できるように。」
と言う。その通りだ。

病んで尚どこか肩肘を張り虚勢を張っていた私に、以前はこちらが世話する相手だとばかり思っていた人々が、頼もしく手を延べてくれる。私は恐る恐るその手にすがる。介護され気遣われる身になって初めて、これまでの自分の横暴さ・横柄さに気付くのだから何としよう。命の果てをふと意識するとき、命の光が見えるとは。

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「忍耐と寛容」(3) 刻一刻

6/14(金), 2002

「お母さん、髪の毛がいっぱい肩についている」という娘のことばに慌てて上着を脱いでみると、案の定、一度では払いのけられないほどの抜け毛だった。「来ましたね、とうとう例の副作用が」と口では言ってみたものの、穴に落ちていくような不安に駆られた。試しに後頭部の髪の毛を自分でつまんで引っ張ってみる。指先には間違いなく髪の毛が何本も。思わず数回それを繰り返したら、あっという間に一房になった。改めて鏡を覗くと、目の周りはそこだけ赤く海水浴にでも行って来たような日焼け状態。両目尻、内端いずれも目脂に爛れてヒリヒリ痛い。ふと気付けば、抜けたのは頭髪だけではない。眉毛も睫も随分減った。やはり、あの十五回の放射線集中治療はそれなりの「結果」を体に残していったらしい。

治療後半の数回は、照射位置が両目からこめかみに移った。眼球と脳に与えるダメージを押さえるために、側面から患部を攻撃しようという戦法だ。このことは既に医師・放射線技師・看護婦などから十分な説明を受けていたし、私自身が提案してみたことでもあった。国立がんセンター中央病院での放射線外来治療は、一週五日のうち二回は担当医との面談を含む。治療方法の意味と、その後の見通し、副作用などについて医師と患者が対座してゆっくり語り合うことが出来る。看護婦も脇で適宜助言する。大きな病院に関してよく言われる「二時間待って三分診療」とは雲泥の差。こちらの疑問、不安など、患者が「物言う」機会を与えられることはたいそう有り難い。だがいくら言葉を尽くして問うても、医師にさえ分からないことは沢山ある。その最たるものが、「果たしてこの治療が功を奏するかどうか」という点と、「何故このような病に罹患し、如何にすれば再発を防げるか」という大疑問だ。しかつめらしい表情で幾度も同じことを様々な言い方で聞いてしまう患者に、医師は時に平然と、また時に決然と「それは何とも言えません」と返してくる。では何のためにこうして語り合うのだろうと、不可解だったこともある。だが次第に得心したのは、人体に定型的な筋書きはないということと、語り合うこと自体が治療の一環らしいということだ。だから、抜け毛にも顔面の異変にもさしたる動揺は無いはずだった。全て語り合ったことの中に含まれていたのをよく覚えているから。それでも「予告」が現実となる戦慄は免れ得なかった。顔面に照射された放射性物質は次第に減量して後頭部に抜けるが、照射範囲の毛髪を失うことになるかも知れない、と言う予告がある程度当たったのには落胆だ。

副作用は突然始まるものではない。徐々に、徐々に現れてくる。半月余りの間、私は仕事を継続していた。外観からは私が顔面に放射線治療を受けていることは、さほど明らかでなかったと思う。同僚たちは私の目尻や顔の上半分が赤らんでくるのを「一杯聞こし召したかな」程度の冗談に紛らせてくれていた。学生たちから時たま「あれ、先生どうしたの。目が赤いですよ」と教室で問われた時には、「これは治療のせいなの。大丈夫」と言えばそれきりだった。私はスケジュールを調整して通勤と通院を組み合わせれば、何とか乗り切れるのではないかと踏んでいた。始まったばかりの学期途中で授業に穴を開けることは、習い性となった職業意識がなかなか許してくれない。しかし、いくつもの会議を欠席し、責任を託された業務を辞退せざるを得ず、同僚たちにしわ寄せが行ったのは事実だ。「今は治療に専念なさい」ということばを有り難く受け止めつつ、「他に代わってくれる人はいくらでもいます」ということばを忸怩たる思いで聞いた。そうなのだ、その通りなのだと思いながら、「あなたがいなくても世はこともなし」という遠い響きをもかすかに聞き取る。通院してくる人たちの背後に、どれほどの無念があることだろうと私は待合室の静けさの中で呆然と辺りを見回したものだ。そして、遂に十五回が終わった直後、私の体力と気力はふっつりと切れた。

最後の日は、朝一番に築地へ行った。魚河岸帰りの商売人が竹の籠を両手に提げて、せわしく行き交う通りを縫うように歩き、病院に飛び込むといつもの手順を慌ただしく済ませ、気がつけばもう寝台の上。技師たちは手慣れた操作で機械を扱い、私はこれが最後だと思いながら青白い光を浴びた。例え効果が出なくても、被爆量の限界まで身に受けたのだからもうこれ以上同じマスクを被ることはないのだと思うと、崖っぷちに立っているような気分だった。治療室を出たとき足下がふらついた。とても疲れているのが分かる。都営地下鉄大江戸線「築地市場」駅構内を私は泳ぐように歩いていた。大卸売市場のある駅らしく、ここの内装はよく磨き込まれた水中カラーのタイル張り。どこからともなく鮮魚の匂いがして、人は皆一瞬重力を解かれる。仕事場にたどり着いて、私はいつものように授業をしたつもりだった。だが、若者たちの目はごまかせない。今度という今度は、彼らに直言されてしまった。

「先生、無理しちゃいけません。」
「見ていて痛々しいです。」
「お大事にしてください。」
「私たちのために授業をしてくれているかと思うと、こっちが辛くなります。」
人には引き際があると思った。しばらく、休まなくてはならないと。

翌日、私は一日眠って過ごした。翌々日は休講願いを出して、また一日中眠った。目覚めても目脂のために目が開かない。「まるで野良猫みたい」と言うと、娘は「野良猫に失礼でしょ」とたしなめる。終日家に籠もって過ごしていると、たまに電話に出ても無愛想なこと夥しい。鬱屈をぶつけたり、的の外れた反応ばかり返して、夫の寛容も限界に近付く。病を力にして創造へ向かえという励ましを与えられながらも、少しでも建設的なことをと挑む一々が高い壁のように私を跳ね返す。昨年来のこの病は、一つのピークを迎えた。そんな折り、まあお茶でも飲みなさいと諫められて座った私の顔を見て、「可哀相に」と姑がため息混じりに言う。思わず泣けてくる。何とか折り合って共に暮らしてきた二十有余年目に、このような深い哀れみを受ける嬉しさの涙が、涙腺の不調によって出てこないのがまた哀しい。頭髪が抜け始めたのはその夜のことだった。さてどのあたりで止まるものやら。

ここは治療の一里塚。先は長い。築地通いはまだまだ続く。三日間存分に眠って、私はいくらか落ち着きを取り戻した。通院途上に、見上げるたびに色の違うバラの花を咲かせている小学校のフェンスがある。刻一刻と変化するヒトの世の現象などとは関わりなく、季節はゆったりとめぐり、バラの花はいつでも薫り高く誇らしげだ。虚心坦懐とはほど遠い胸の内にせめて一輪、あの花が欲しいと思う。

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「忍耐と寛容」(2) 閃光

6/3(月), 2002

週日毎日の築地通いを始めて一週間余りが過ぎた。いくらかリズムが身に付いてきたとはいえ、新たな仕事を抱え込んだようなもので、厄介なことに変わりはない。今まで当たり前にこなしていたことが出来なくなり、予想もしていなかった場所にいる自分を発見しては戸惑う。だが、現実は人を慣らす。新たな状況に身を添わせなくては致し方ないとなればなおさら。

築地駅に降り立つと晴れた日は海風が町中まで吹き渡り、よろよろしていたら吹き飛ばされかねない。カモメが旋回する宙を見上げながら、私は黙って大通りの交差点を渡る。病院に入ると「再来受付」の機械に診察カードを差し込み、計算カードなるものが印刷されて出てくるのを待ち、備え付けのプラスチックファイルに入れて、地下二階の放射線科へ降りてゆく。初めてこの病院の核医学検査室へ行ったとき、私は「放射線科」の前を通過して愕然としたのを覚えている。待合室の人々がスキンヘッドにバンダナを巻いたり、キャップを被って座っているのにたじろいだのだ。話に聞く「副作用」を間近に見て恐れをなしたと言っても良い。ところが今ではもうそんなことでは驚かなくなっている。誰が好き好んで髪の毛を失いたいと思うだろうか。スキンヘッドの人々は副作用込みで、その治療を甘受すると決めたのだ。つまり自分の病気の意味を知り、何と何を引き替えにして悔いないか考えた末、放射線治療で生き延びることを選んだ人々なのだから恐怖も同情もお門違いというものだ。(もちろん放射線だけではなく、化学療法を併用している人も多い。髪の毛に関しては薬物の影響の方が強いと考えられる。)遠くで見ていた頃、別世界だった場所が自分の居場所になる不思議。そして、その中に入れば「偏見」が氷解してゆくもう一つの不思議。

早朝のこともあれば午後のこともある。私の治療はほんの十五分余りで終わる。治療室には静かに開閉する(おそらく)鉛の扉が設置されている。呼ばれて立っていくと、放射線技師が丁寧に中へ誘導してくれる。奥まった治療室には寝台が一つ。これは上下左右に移動して、鍵の手に覆い被さっている放射台との距離が調整できる。まるで儀式だ。「ではどうぞ」と言われると、私は着衣のまま寝台に横たわる。技師がプラスチックのお面をぴっちりと顔面に被せる。ここで数人の手で微調整が行われる。自分の顔の回りを動く技師たちは、目を閉じている私には「声」の存在でしかないが、気配というものが感じ取れるようになってきた。眼球を直撃する放射量を減らす為に、直径一センチ弱・長さ十センチほどの鉛の棒を機械に置く作業を彼らは右だ左だ、上げて、下げて等と言い合いながら手で行っている。ハイテクばかりが幅を利かせているのでもないらしい。準備が整うと、彼らは一斉に鉛の扉の外へ出ていく。どこからか「ビー」という音が聞こえてきたと思う間もなく、先ず右から青白い光がフラッシュする。私はそれを放射線だと思っている。熱くも痛くもないけれど、皮膚は何かが当たるのを感じ取る。光は私の目の中に飛び込み、異物を攻撃し、同時に健全な細胞にも一撃を食らわし、後頭部へ抜けていくのだろう。ついで再びの「ビー」という音と共に左側から青白い光がフラッシュする。

それぞれほんの一分足らずの照射時間だが、放射線を浴びている間に私はいろいろなイメージを思い描く。このイメージは自分の願望が作り出す幻影に過ぎないとは思う。ある時には肉親の姿が現れ、ある時にはその日別の場所で出会った名も知らない人の姿であったりする。私は助けを求めているのだろうか。そうでもない。むしろイメージの方があちらから近付いてくるような気がする。そしてふと、この青白い光はかつて広島・長崎・チェルノブイリで、大勢の命を奪ったのと同じ物質ではないかと思い至った。この青白い光を人は戦争にも使い人命救助にも使う。大量殺戮に使われるとき、人は「数」でしかなくなる。だが治療に使われるときには、何人もの関係者が放射量・位置・角度・回数を吟味し、患者と面談を繰り返して心身への影響を確かめていく。この差は一体なんだろう。私が焼き尽くされた町にあの時いて、何の斟酌もなくこの光を大量に浴びたのだとしたらどんな一生を送ることになっただろう。抗議することも出来ず地上からかき消えていたかも知れない。

そうして胸にあふれてくるものがあるのも瞬時のこと。再び扉を開けて技師たちが戻ってくると、「お疲れさまでした」の声と共に私のお面が外される。寝台は静かに下降し、技師の一人がナイトのように手を貸して私を起こしてくれる。私は強ばった体をギクシャクさせながらも「ありがとうございました。また明日もよろしくお願いします。」と挨拶して部屋を出る。通路にはやわらかな照明が床置きの木製ランプシェードの隙間から足下を照らしている。絶えず流れているBGMは誰が選ぶのか、大抵英語の古いポップス。私は贅沢な心配りだことと感心しながらちらりとライトに視線を投げて、足早に地下二階をあとにする。一階ロビーのソファで会計を待ちながらテレビニュースに目を向けると、折から緊迫するインド・パキスタン情勢が報道されている。「もしこれら二つの核保有国同志で戦争が勃発したら、1200万人以上が影響を受けるでしょう」という声。先だってのアフガン戦士たちとは比べものにならない装備をした兵士たち。灼熱の大地を行き交う大型トラックの列。

十五回という約束の放射線治療もちょうど折り返し地点に来た。今の私には町をうろついて写真を撮る体力も、銀座に出て買い物でもしようかという気力もない。自宅と職場と病院を行き来するので精一杯。だが、心の深いところに、今までその存在を感じたこともないような反射鏡がせり上がり、私の見聞きするものを映し出す。町の片隅に腰を下ろして体を休めている老婆。電車の中で杖をついて立ち続ける老人。その前で眠りこける若者。老いるのも病むのも誰のせいでもない。あなたも私も生身の人間。青白い光を手に入れた人類の末裔なのだ。

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「忍耐と寛容」(1)マスクの下

5/18(土), 2002

「お面を作ったのよ。」
「お面?」
「プラスチックのお面。それを被って毎回放射線を当てられるんですって。当てるところを外さないように、マークするらしいの。だって目の回りに直接丸を描くわけにいかないから。」
「パンダだな。」
「だね。」
「ま、デスマスクじゃないだけいいんじゃない。」

そんな会話をした一週間後、マスクを被ってCTスキャンをした。私の眼窩への放射線照射開始までにあるいくつもの検査の最終段階。箱形の枕に頭を固定された形で堅い寝台に横たわると、医師が左腕に造影剤を注射する。自分で見ることは出来ないけれど、点滴型にゆっくり注入されるものらしい。体の中に暖かいものが流れ込んでくるのが分かる。前回全身にCTスキャンした時は、造影剤がいくつかの局所を直撃して、体が燃え立つようだったのに比べると今回のものはずっと穏やかだ。マスクは鼻の開口部以外、顔面に密着している。器具がぴっちりと頭を押さえている。

「もし何かあったら、右手を挙げて合図してください。直ぐ検査を中止します。気分が悪くなったら我慢しないでください。でも、決して動かないでいてください。いいですか。」

そう聞かれても頷くことも声を出すことも出来ない。早速私はOKと言う意味の合図を右手で送った。医師と技師は患者の了解を得て、機械を動かし始める。照明が消え、あたりが暗くなったのは感じられる。寝台がせり上がり、グワン、グワンと何段階か前進して、ドラムの中に入っていったようだった。もう私は驚かなくなっている。CTスキャン、MRI、γ線シンチグラム、等の検査を受け始めた頃は一々にたじろいでいた。好奇心に駆られてキョロキョロしたものだ。今では、もう力まなくなっている。寝台に上ったら身を委ねるしかない。何が起こるのか、どうなるのか、案じていても始まらないことをいつしか覚えた。一度だけ、自分が火葬場のかまどの中に送り込まれる棺桶の中に入っている錯覚に襲われたことがある。あのときばかりは、此岸と別れるのはこんな感覚なのだろうかと思って寂寥感に襲われた。だから、「はい終わりました」と言われた時、目尻に涙を溜めている自分が滑稽だった。

注射慣れというのもある。何かというと採血、また採血。造影剤注射。流石に手術前後は麻酔を打たれたり、鎮痛剤、消炎剤なども注射されたようだったが、明確な治療のための注射はまだ一度も打たれていない。約9ヶ月に及んで、ただ検査のためだけの医療が私の体を捕らえてきた。一本一本の注射は何かを改善する為ではなく、ひたすら攻撃目標を特定するためにのみ血管に突き立てられた。瞬間痛いのは確かだけれども、我慢できないほどでもない。前回の検査で胸骨に骨髄穿刺をされた時には流石に痛かった。だが、医師が「一つだけ約束してください。どんなに痛くても、飛び起きたり動いたりしないことを。動かしていいのは口だけです。いいですか。」と念を押したのに対し、「イヤです。」と言えるわけない。あのときも観念した。予告通り、猛烈に痛かった。髄液を吸い上げられる時の何とも言えない感覚は、他に例えるものがない。それでも上部内視鏡検査よりはましだった。あれも、何度か受けていると慣れるそうだが、繰り返したいとは思わない。いずれにせよそれが治癒への道程だと思えば、例えしばらくは不快でも耐えられないことなど何もないように、今は思っている。

プラスチックマスクに顔面を押さえられて約15分、ドラムの中で私は夢幻の岸辺を漂っていた。こんな風に、脱げと言われれば裸になり、寝ろと言われれば横たわり、腕を出せと言われれば抵抗もせず、動くなと命令されて素直に従うのは、見方によっては暴力を受けるにも等しいのに、病院という場所で白衣を着た人たちの定めた行程は辿る価値のあるものだと信じればこそ、なされるがままになっている。霊能者の所へ行くべきだとか、奇跡の薬があるようだとか、自然治癒力と免疫力を高める生活習慣を先ず身につけることだとか、いろいろな人が私にアドバイスをくれる。どれも有り難く拝聴しながら、私は案外気楽にこの現代医療の最先端技術に我が身を託してきた。手術、化学療法、放射線治療という三つの主要な治療法の第三番目が私の症例には有効であるらしいとの結論が出たのがつい数週間前。これまでに踏んだステップは、その時々に最善のものだったような気がしている。あまり理屈はない。「気がする」だけ。だが、これまでのところ、多少肉体的に不快なことは経験しても不信に陥ったことはない。それでよしとして、先へ進もう。

マスクから、点滴の針から、そして堅い寝台から解放され、病院を出て、私は街のイタリアンレストランで遅い昼食をとった。外見からは多分病人に見えないと思う。袖を下ろせば注射の後は隠れるし、化粧をちょっと直せばさっきまでプラスチックマスクの下でじっとり汗をかいていたことなど誰にも分かりはしない。ウェイターはあくまでも丁寧で、患者から客に変身した私は、何事もなかったようにゆっくりとコーヒーを飲む。既に梅雨の気配が濃厚な通りを流れていく車。行き交う人々。外から見ただけでは、どこにどんな痛みや苦しみがあるのか知る由もない。今まで、如何に皮相的な観察しかしてこなかったかと、私は自嘲せざるを得なかった。

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ホームレス 2/10

2/10(日), 2002

いつもの道を散歩している時に、私は白い看板の前で立ち止まった。それはつい最近、ゲートボール場で殺された、ホームレスの男性を追悼する集会への呼びかけだった。あの痛ましい事件は私の住む町で起こった。殺人容疑者として数人の中学生が逮捕され、東村山市は若者の暴行殺人事件で一躍有名になった。

事件が起きたのは1月25日のこと。報道によれば、近くの公民館内にある図書室で騒いでいた中学生をこのホームレスの男性が注意したところ諍いが起こり、館外に出た後も彼らが争っているところが目撃されている。中学生達は夕刻ゲートボール場へ行き、男性がもう一人のホームレスとともに寝ぐらにしていた差し掛け小屋から彼を引きずり出して角材などで殴り続けたという。

どの場所も私には馴染み深い。いつも歩く遊歩道沿いにある。長年目にしていてどれも際だったところなど全くなかった。だが、今やそれらは突然異彩を放ち始めている。ゲートボール場は差し掛け小屋とともにビニールシートで完全に囲い込まれ、忌まわしいもののように住民の目から隠されてしまった。遊歩道を行く人々は不安そうに見えないグラウンドを眺める。「我が町の若者の殺人事件」が各人の胸に深く刺さっている。それはもはや彼岸の火事ではない。中学生達は我が子だったとしても不思議ないのだから。

私の娘が小さかった頃、よくその公民館や図書室へ連れて行ったものだ。ただで過ごせるから手軽に子供を遊ばせられる。日頃地元を離れていることの多い私にはさしたる知り合いもなく、誰とそこで会うわけでもなかった。二人きりでぽつんとしていたが、気にもならなかった。小さい子供はそれほど同年の遊び相手を欲しがるものではない。安心して共にいられる人間が側に付いていれば、いつまででも一人で遊んでいる。母親なり父親なりは、玩具や遊具で遊ぶ子供を眺めているのにすぐ飽きて眠くなってくる。しかしその退屈は子供時代に特有の不思議な平和と夢見心地の瞬間を創り出す。おそらくあの中学生達の母親も同じ頃同じような瞬間を、あの公民館で過ごしていたのではないだろうか。そうと知らずに出会っていたのかもしれない。似たような親子連れが沢山来ていたのを思い出す。どこといって違うところもなかった。あの小さかった子供達はいつしか大きくなって今では十代だ。

子どもが小さい時、多くの母親は長い時間を子どもと過ごす。一日の大半を子どもだけと向き合って過ごす母親も沢山いると思う。もちろん子どもはすぐ保育園や幼稚園へ行くようになるけれども、それでも母親と子どもが密着して過ごす生活はかなり続く。ふとそんな静的な状態がいつまでも続くような錯覚に陥ることすらあるほどに。だが、すぐに子どもは大きくなって友達を見つけ、母親の手を放れ始める。彼らは大人の侵入を許さない世界を持つようになる。一方母親は母親で様々に自分のことで忙しい。子どもと母親は別々の世界に住み、えてして共通語すら持たなくなることがある。

娘がとても小さかった頃のことを思い出すと、ほんの僅かな期間だけ、私は二つの世界を行き来することを許されていたように思う。一般社会と小さな親密な世界とを。前者では自分に振り当てられた幾つかの役割をこなし、後者では名のない「母親」としてのみ存在する。いずれにおいても不器用だったけれど、私は暫し生き物の柔らかな感触を愛でながら、おとぎ話と乳臭い夢の世界に浸る喜びを味わった。だがあっという間にそんな時はかき消えた。

二月の風は冷たい。私はじっと立ったまま、ゲートボール場と差し掛け小屋の様子を思い出そうとしていた。しばしば子どもの夢の世界の一部として眺めた光景。玉のかち合う乾いたコーンコーンという音や老人達の歓声も耳に残っている。あの人達も楽しみを奪われた格好だ。我が町の人々は呆然としている。何故ここで事件が起きたのだろう。自分たちが何をしたというのだろう。いや、自分たちは何をしなかったというのだろう。地元の十代がしでかしたこと。どうして誰も防げなかったのか。「ホームレス」が殺されることを。

今にして思えばあのホームレスの人々も、私の眺める風景の一部だった。あの人達はそこにいた。私たちは関わり合わなかった。市民権なるものを持つものと、何の特権も持たないものとは。武蔵境から始まり多摩湖に至る遊歩道は散歩するもの、ジョギングするもの、自転車をこぐものにとって素晴らしいコースだった。そこはまたホームレスの人々にとっても平和な場所だった。今やその均衡は崩れた。地域の平和は、世界の平和と同じく、たやすく壊れるものだと知る。母親の腕の中で無力だった赤ん坊はそこを抜け出して道に迷う。ホームレスの人々はどこからやって来たのだろう。誰も知らない。両者はどのようにして出会ったものか。

白い看板はこう伝えていた。「集まって一緒に何故その不幸な事件が起きたのかを考えましょう。それは中学生だけの問題でも、ホームレスと呼ばれて亡くなった人だけの問題でもなく、私たちの問題です。何故それがここで起きたのかを考えましょう。」

「何故この私に。」「何故ここで。」必ず私たちはことが起こるとそのように問う。不条理と言うべきだろうか。そうではないだろう。何だって我が身に降りかかることはある。突然に、そして思いもよらず。このようにして新しい局面は開始される。現実は悪夢の中から生まれるのだろうが、しばしば基盤のない夢よりましなこともある。少なくとも我々が真実の前に立つという意味では。

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築地再訪

1/20(日), 2002

築地は卸売市場でもっとも名の知られた街だ。あらゆる種類の食品が取り引きされる、東京の、いやおそらく日本の食品ビジネスの中枢と言えるだろう。観光名所にもなっている。とりわけ海外からの訪問者の関心を引き、早朝の競りを見物に行く人々が大勢いると聞く。近接する銀座の洗練とは趣を異にする東京の相貌を、築地は見せてくれる。

その街の真ん中に、国立がんセンターがある。最新鋭の設備を誇る病院の真新しいビルは、辺りを威圧して聳えている。私は暫し口をぽかんと開けてその偉容を見上げた。かつて私の知っていた建物とは似ても似つかない。ちょうど六年前、私は何度もここを訪れたものだ。当時父が肺ガンで死にかけていた。あのときの陰鬱な病院はどこへかき消えたのだろう。あの建物を息詰まる痛みとともに思い出す。

最初に会った若い医師は家族・係累にガンに罹った者がいるかどうか尋ねた。「父と二人の叔父が」と答えてから「手の施しようがないと言われて、父はこの病院を追い出された後、ホスピスで亡くなりました」と私は一気に付け足した。医師は僅かに眉を上げて「そうですか」と答えた。ボスに会わせる前に彼が私に手渡したのは、検査や手術を受けた場合、生体摘出組織やデータを研究用に提供することへの同意書だった。「将来のガン研究推進のために、是非ご協力をお願いしたいと思います」と、医師は慇懃に言う。それは些か奇妙な申し出のような気がした。なぜなら私は未だガンと診断されたわけではないのだ。国立がんセンターを訪れたのは、どこよりも精密な検査が受けられるからという地元の病院のすすめによるものだったはず。これではまるで、がんセンターの門をくぐる人間はすべて役に立つ研究材料と見なされるも同然ではないか。書類を私はよほど胡散臭い目で見ていたに違いない。医師は慌てて拒否権もあることを強調した。私は不承不承、書類を受け取った。

六年前には、よもや自分がこの病院へ診察を受けに来ることになるとは思わなかった。父の苦しみを全身で受け止めてはいたけれど、その病気は自分とは無縁だと思っていた気がする。だから地元のクリニックの眼科医が、「国立がんセンター」へ行って専門医の精密検査を受けたらどうですと言いだしたときには、ぎょっとした。病院の名前自体が禍々しい。「ガン」は「エイズ」と同様、人の心に特殊な魔力を持つ。私は単純素朴に抵抗と恐怖の態度を露わにしたらしい。数ヶ月通った公立病院に決別し、長引く眼疾についてのセカンドオピニオンを求めた医師は、笑いながら私の恐慌状態をいなしてこう言った。

「心配要りませんよ。落ち着いて考えてください。複雑な症例を数多く手がけている専門医の診察を受けるのは合理的なことだと思いませんか。素人医者がいくら診ても埒があかないんなら、あれこれ思い煩うより築地に行って確定診断を出してもらってらっしゃい。もし僕があなただったらそうするな。今ここで電話して予約を取ってあげますから。いいですね。」
こうまで言われたらとても「結構です」とは言い出せない。がんセンター詣でをすることになったのは、このようなことの次第による。

新米患者とはいえ、初診の時に何もかも明らかになるわけもないことくらい、私にももう分かっていた。思った通り、初日には、大病院の各階を上がったり降りたりしながら幾つかの検査予約を取ることで精一杯。検査その一は来週、その二は翌週、もう一つは三週目、等々。(それでも自然に順番待ちしていたら五月初旬になってしまうはずの検査を、主治医が「至急」のマークで今月中にしてくれたものもある。各部署が緊密にオンラインで繋がっているのは見事だった。)様々なチェックポイントで認証を受けたり、採血されたり、「服はここに脱いでください。大きく息を吸い込んでー、はい、終わりです」と、突然X線撮影をされたり、検尿コップを手渡されたり、目まぐるしいオリエンテーリングのようだった。あっちで待たされこっちで足止めされ、有に半日、私は巨大な新ピカの病院で過ごした。初めこそ緊張していたものの、次第に気分は緩んできて、いつしか病院の流れに乗せられていた。その世界にはそこの決まりがあり、言語がある。こちらが自意識に固まっていても何の意味もない。私はただの患者だ。それ以上でも以下でもない。私がどこの誰か、何をしている人間なのかは問題ではない。その組織の中を動く列車に飛び乗るだけだ。ただ、緊急の場合はいつでも飛び降りる覚悟さえしていればよい。必要と判断したら、自分で「降りる」選択の余地はある。(実際私はこの前まで乗っていた列車を黙って飛び降りた。何一つ解決せず空しく費やした時間とエネルギー。)

繰り返される検査、集められるデータ、分析、診断、そして治療。それは長い行程だ。いい加減うんざりしてくる。ただ、この経験を通じて可能なのは、医療機関の内側を観察すること。権威ある病院と言われる場所の実態を私はじっくり見るつもりでいる。同時に自分の内面をも。「老・病・死」を逃れられる人はいない。生きている限りそれについて書くことは可能だろう。やってみようと思う。

迷宮の中で、私はエスカレーターもエレベーターも見つけられなくなる瞬間があった。そばを通る白衣の女性に尋ねてみると、彼女は「関係者以外立ち入り禁止」と書いてある扉をまっすぐ指さして言った。「この中にエレベーターがあります。上の階へ行く時私はいつもここを利用しています。」私は微笑みながら礼を言い、躊躇わず示された扉を開けて中へ入っていった。患者は他へ行けと私に言う人は誰もいなかった。面を上げて背筋を伸ばし「関係者」のような顔をすると、私の気後れは消えた。患者だからとおどおどする必要がどこにあるだろうか。権威に怖じけずくことはない。病名にも。

「国立がんセンター」は、無数の生活と心情を持つ個々人の患者に奉仕するためにあるのではなかったか。そうだ、私も無名の患者候補生の一人だが、実際の病名が何と付くにしろ、誇りもあれば自尊心もある。再訪した築地はもっとも根本的な自己証明を私に思い出させた。恐れる理由は何もない。

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遠い呼び声

1/9(水), 2002

「もしもし。」
「もしもし。」

「誰だか分かる?」
「先生ですか。」

「先生って言ったって。」
「S先生ですか。」

「そう、分かったね。」
「お久しぶりです。」
「ほんとに。」

こんな具合に電話は始まった。先生は既に退職している。夫人も同様に。

「Kはまだウチにいるよ。」
「Kさん、おいくつですか。」
「40。君は?」
「49です。」
「九つ違いだったんだね。」
「そうです。あの頃、私は大学院を出たばかりでした。」

私は先生の一人息子に英語を教える家庭教師だった。高校生のKは本と漫画が大好きで、いくら勉強させようとしても気がつけばいつも脱線している。私は彼にとっていい家庭教師とは言い難かった。勉強時間が終わると、先生夫妻は必ず私を夕食に誘ってくれた。それから夜まで長い話が始まる。S先生は本について、政治について、人について、その他森羅万象について、私が自分の家ではついぞ聞かないような話を延々とする。独特のスタイルで個人教授をしてくれていたようなものだった。確かに教室で拝聴したどの授業よりもそちらの方が面白かった。夫人も気さくに私が知っているのとは全く異なる家族の形を披露してくれた。S先生は私を自宅付近の山歩きに連れて行ってくれたこともある。彼は植物が好きで、庭には様々な花や草や木が所狭しと植えられていた。その雑然とした様子は先生の書斎、書庫、家全般と全く同じだったのを思い出す。居心地がよかった。私は文学のことを知っている振りをする必要も、何かに励んでいる振りをする必要もなかった。彼の指導を受けた学生達の中で私はもっとも怠け者だったと思う。

先生と話をするのは大方二十年ぶりだった。年賀状だけが行ったり来たりしていた。この先生は就職の世話をしてくれたことはないし、自分の息子の家庭教師以外アルバイト一つ世話してくれたこともない。私の方も不満に思うことはなかった。そもそも私は学問の世界に野心がない。ただ教えることは好きで、それだけが仕事にしうることだった。

先生から突然電話があったのは、どうやら年賀状に勤務先の短大から英文科が消えることを書いたせいだった。私が失業しかけていると思われたらしい。私はさしあたってその心配はなさそうなことと、当面英語教師の職は続きそうなことを伝えた。先生は、「それならよかった」と言った。話題は別のあれこれに移っていき、かつて様々を語り合って笑い合ったときのように、共有できるものが未だあることが分かった。

受話器を置いたとき、変わらないなと思った。S先生の声は私がよく覚えているものだった。あの斜に構えたユーモア感覚も健在。一人で思わずくっくっと笑ってしまった。時は彼に大した効力を発揮しなかったと見える。先生は象牙の塔の隠者だったことはない。年齢に応じて風格を備えていくというより、余り感心しない万年文学青年のようだ。私は若い頃、先生の奇妙にくぐもった笑い方が気味悪かった。なぜ同僚の先生方のように学問業績を次々と発表していかないのかと訝しがったこともある。でも今、それもよいのではないかと思う自分に気づく。先生の一貫性はきわめて自己中心的な意識のありように顕著だ。尊敬を促すものでは決してないけれど、その変わらぬ態度がなんだか好ましい。こちらも声を作ることなく、以前と同じ調子で話せたことが嬉しかった。

どうやら人は成長して別人格に変貌を遂げるというものではないらしい。備わった原型は変化しない。時の経過につれて変化するのは外見だけ。S先生の遠い呼び声は私に、変わらないことは悪くないねと言っているような気がした。

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バトル・ロワイアル

1/3(木), 2002

正月早々、『バトル・ロワイアル』のビデオを見てしまった。選んだのは二人の姪に私の娘という十代の少女たち。この映画は数年前「十五歳以下の鑑賞禁止」という条件の元に劇場公開された。禁止の理由は暴力シーンが余りにも凄まじいからとのこと。禁止されれば見たくなるのが自然の成り行きで、原作の小説はローティーンの間で回し読みされ続けてきた。ビデオレンタルが始まり、映画専用チャンネルで放映された今となっては、十五歳以下がこの映画を見るのを阻むものはない。最後のバリアは親たちだろう。私は彼女たちに見ていいと言い、自分も一緒に見た。確かにショッキングな映画だった。

中学生一クラス(三年B組)が孤島でサバイバルゲームを繰り広げる物語。互いに殺し合い、最後に残った一人だけが一般社会に生還できるというもの。(この話の中で、日本の大人たちは教育力を喪失し、荒れる若者を制御できなくなっている。苦肉の策として「BR法」なるものが制定され、毎年全国から選ばれた50クラスが島や囲い込まれた土地でこのゲームに参加させられる。)武器と食料を手渡された中学生たちは野山に放たれ、級友を殺すか級友に殺されるかしかない。制限時間は三日間。刻々増えていく禁止エリアを時間内に抜け出さないと首輪が爆破して死ぬ。担任教師が司令官となり、広域放送を通じてバトルゲームへの積極的参加を促し、毎日四回、死亡者名簿を読み上げる。そんな状況の中で一組の男女が助け合い、「非合法的」に島を脱出することに成功するが、、彼らはこれから社会の異分子として生きていかなくてはならない。映画は血塗られた残忍非道な殺戮場面の連続だ。

居間のティーンエイジャーたちは、ビデオを見終わった後しばらく無言だった。私も同様。確かに元旦に見るような映画ではなかった。少女たちは考え込む様子で静かにしている。娘と私は後から繰り返し細部について語り合うようになった。彼女は既に数ヶ月前に、原作小説を読んだ。今その本はクラスメートが読んでいる。私は娘になぜこのような映画や小説に惹かれるのか尋ねてみた。彼女の答は「面白いから。極限状態の人間の行動もよく分かるし。」胸が悪くならないかと問うと、「ゼンゼーン」という返事。続けて言うことには、

「この映画見たり、本読んだ後で、人を殺したいなんて誰も思わないでしょ。殺し合いの場面は怖いけど、いろんなことが分かった。この映画、オトナは最初見るなって言っといて今頃解禁してるなんて意味無いよ。オトナは子どもの判断力を信じてないんだね。オトナの方が戦争みたいなもっとひどいことやってるじゃない?映画の中でハッキングやってオトナたちのコンピュータシステムを破壊した人たちがいたでしょ。あれ超かっこよかったよねー。あぁーあ、あの人達、生き残れたらよかったのに。でもだいたいの人達が作戦も何にもなくただ群れてるだけで、一人だけで行動する人は希だった。あの行動力を上手い方向に使えば助かったかもしれないのに…、個性的なキャラクターの人達もアタマの使い方間違って自滅して逝ったね。」

「もし私が小説の方、先に読んでなかったとしたら、映画見られなかったカナ…。っていうか、絶対見なかった!これは断言できるね。映画の方は色々省いてるから単純に殺し合ってるようにしか見えないよね。小説読んだからこそ、映画に出てこなかったトコロ沢山知ってるから、もっといろんなコトがあって、ああいう場面になるって分かって、ただ殺されていくだけだって思わなかった。とにかく、どんな場合でも冷静に落ち着いて判断しなくちゃならないってことの大切さはよく分かった気がする。ゲームに飲み込まれたら、無我夢中で『生』にしがみつこうとするから、逆に自滅していくんじゃないカナ…。その点、冷静にアタマを使って脱出を考えた人の中には結果的に死んでいった人の方が多かったけど、意味のある死に方をして逝ったと思う。…要は無駄死にじゃなかったってコト。BRって極限状態で自我をどれだけ保てるか、自分を見失わないで行動できるか、の大切さと大人の言いなりにならない子供の気持ちを描いているんじゃない?」(本人談)

娘は13歳。ハリー・ポッターシリーズが大好きで、アニメ映画『千と千尋の神隠し』は劇場に三度も足を運んで見た。ファンタジーをこよなく愛する。しかし、この世は夢物語だけで完結しているとは思わないと言う。ビデオを見て怖じ気づいた親より余程落ち着いたものだ。

突然、私は世界には望まない戦に巻き込まれている子どもたちがいるのを思い出した。大人が勝手に始めた「バトル」を戦わされているティーンエイジャーが今もこの地球の各地にいる。日本の子どもたちだって既にある種の戦いに巻き込まれているのを感じているのではないだろうか。そうなると、この映画は日本の子どもたちにとって必ずしも「荒唐無稽」なものには映らないのかもしれない。子どもは何かを本能的に直感する。自分たちに都合のよい常識と倫理観念に縛られた大人が彼らのことを無垢で無知だと考えているなら、それは余りにも楽天的すぎる。

映画には天上の美しさをたたえた音楽が流れていた。とりわけ血みどろのシーンで。それは清らかな聖歌のようでもあり、平和な社会と子ども時代への鎮魂歌のようでもあった。私の心はまだ血を流し続けている。私は弱々しく自問する。「何か自分にできることがあるだろうか」と。せいぜいエゴイストであることを止すがいいという答えがどこかから聞こえてくる。自己満足のためのものではない本物の「利他主義(他者を殺すのではなくて生かすこと)」について考えてみたらどうかと。紛い物でもイミテーションでもないもの。それはもっとも難しい考え方であり、生き方でもあるけれど。『バトル・ロワイアル』は我々の現実へのアンチテーゼでなくてなんだろう。

初夢ならぬ「初悪夢」。三が日も過ぎる。もう目を覚まさなくては。

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写真の少女

12/24(月), 2001

過日、私は東京・表参道の「ミズ・クレヨンハウス」を訪ねた。ここは基本的には「女、子どものための本屋」だ。様々な本ばかりでなく、化学物質を使わない化粧品、自然素材の雑貨、有機栽培の食品なども売っている。もちろん「男、大人」を排除しようというのではなく、広義のフェミニズムとマイノリティーに関心を持つ人なら誰が訪れても興味深い場所と言える。おしゃれな街の一角にぴったり収まる素敵な店。

アフガニスタンの子どもたちと女性たちの写真を見ることが、今回の訪問の主な目的だった。店の階段の壁を地下一階から三階まで使った、実に質素な写真展。「ミズ・クレヨンハウス」へは「女性と現代」というクラスの学生たちと共に、見学会として出かけた。学生たちは教室の四角い空間から解き放たれて、ウキウキしていた。それは私も同じ。川崎けい子という女性写真家の作品群に、私たちは大いに感銘を受けた。

百点余りあるパネルの中でも私が特に強い印象を受けたのは、熱暑の野外で煉瓦作りをする十代の少女の写真だった。彼女はすり切れた服を着て、裸足だった。薄い胸の前でかすかに両手を組み、バケツの傍らに一人で立っている。モシャモシャの髪の毛がほっそりした顔を取り巻き、彼女は倦んだ様子で虚空を見ている。諦念としかいいようのない表情の他、何かを訴えているようにも見えない顔つきをしている。きっと十代も始めの少女だと思う。どんなに大きくても14歳に満たないだろう。けれども彼女はとても「女らしい」。彼女の姿態には優美さがある。彼女の顔には強ささえ漂う。そんなにも幼いのに、彼女は女であることの意味を知っているように見えた。

その少女はまだブルカを着る年には達していない。パキスタンのアフガン人難民キャンプに住まわせられている。故郷を遠く離れ、彼女の家族は最も抑圧され、最も収奪された生活を余儀なくされている。写真の少女は、運命に従っていた。そのような重荷を背負いながら、それでも彼女はおそらく年長の者達から受け継いだとおぼしき人間の尊厳とたおやかさを備えている。私はその写真の前を長い間離れられなかった。

何の発言もしないけれど、裸足のアフガン少女は大地に立ち、おのれの存在を世界に向かって主張していた。見てご覧、誰も彼女の命を奪うことは出来ない。見てご覧、彼女の命は彼女のものだ。誰も彼女に触れることは出来ない。自由は尊厳と深く結びついている。私は彼女の自尊心を見たように思った。無言のうちに彼女は「私は誰のものでもない」と言っている。

一枚のアフガン少女の写真に導かれ、私は 「アフガン女性革命協会(RAWA)」のウェッブサイトへたどり着いた。これは驚くべき情報量を誇るサイトだということがすぐ分かった。まだその膨大な資料の一部を読み始めたに過ぎないが、未知の世界に関する優れたアーカイヴなのは明らかだった。そのサイトから発信する女性たちは、私に自分自身を振り返るよう促す。「抑圧され収奪された」人々の底力を感じる。彼女たちと向き合っていると、私は自分が次に踏み出す一歩について寡黙にならざるを得ない。少なくとも多弁は無用だろう。

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あの日

11/28(水), 2001

ちょうど一年前のあの日に起こった出来事。私はそれを翌日知った。電話が鳴った。信じ難かったが、現実を受け入れないわけにはいかなかった。友人が病に倒れた日。あれから一年。忘れられない日は色々ある。「あの日」もそういう一日の一つになった。

一年は長いのだろうか、短いのだろうか。時を計る定まった尺度はない。人それぞれの価値観と感性による。私にとってあの日は非常な衝撃であったと同時に、継続して物思う契機ともなった。一年はゆっくりと、そして急速に過ぎていった。

つい最近、私は雑木林の中を細い流れに沿って歩いているとき、同じ場所を若い頃にもよく歩いたことを思い出していた。十八の学生だった私に恋人はいなかった。いつか素敵な出会いがあることを夢みるばかり。これという特技もなかった。将来何かをしたいと思うばかり。お金もなかった。独り立ちできる仕事を持とうということだけは心に決めていた。沢山の可能性と怖れで一杯だった。怖れ?そう、それはもう様々な。一人で旅行に出かけるのも怖かった時代。何の根拠もない怖れだったと思う。しかし、その怖れの中に理不尽な形で暴力を受けることへの、とりわけレイプに対する恐怖が含まれていることは自覚していたと思う。果たして同じ年頃の女たちがそんなことを感じているのかどうか私には分からなかった。何とかして恐怖心を克服しなくてはならないと考えたものだ。

若い頃一人で歩いていると、誰かが後ろから付いてきていやしないかとしばしば振り返ってみた。怖かったけれど、あちこち歩き回るのを止めることは出来なかった。出歩きたい衝動が勝っていた。怖れを抱えたまま、よく出歩いた。やがて私は自衛策を身につけた。歩く場所を選ぶ勘が出来てきたとでもいおうか。いささか保守的な選択をするようにもなっていた。本来恐怖心と好奇心は手を携えていくはずのものだが、私は人生の安全な側へ身を置く傾向を示し始めていたように思う。

夕闇が深くなってきた。小道には殆ど人がいなくなった。十八や十九の頃だったら、きっと不安に苛まれていただろう。今ではもうそんなことはない。あの頃を思い出すと、期待や夢ではち切れそうだった。それから十年経った頃には、もう怖れがどうだこうだと言う間もなく、多忙で活動的で、野心に溢れ、貪欲になっていた。更に十年経つと、多方面の活動に巻き込まれ、幼い娘を育てながら一度に色々なことに手を染めていた。それからまた十年、もはや「発展途上人」の言い訳は効かない。何一つ目覚ましい達成はしていないにもかかわらず。もし怖いものがあるとしても、全く別種のものになってしまった。

「あの日」から一年後、友人は見事に生き延びた。それが「達成」ではないだろうか。そんな気がする。「達成」とは他に誇示するものではなく、心に深く暖めるもの。この世には多種多様な理不尽な暴力(必ずしも人為的なものとは限らない)が存在する。人はどのようにしてそれら全てから身をかわし、いつも道の安全な側を行けるだろうか。そんなことは不可能だ。「あの日」私は性懲りもなく、未だ自分は安全な側にいるような気がしていた。そんなことは嘘だとこの一年が教えてくれた。人は誰しも傷つきやすい。例外はない。理不尽な暴力や攻撃の果てに、人は日の光の真の美しさに目覚める。

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笑顔の女達

11/17(土), 2001

長い巻き布のターバンで頭を覆った男達の写真はいくらでも見るけれど、最近のアフガン情勢を伝える新聞紙上に、ブルカというあの目の周りだけ編み目の窓を開けた、全身をすっぽり覆う布で包まれた姿以外の女達を目にすることは滅多になかった。北部同盟がタリバンをカブールから撤退させたと報じられた日の新聞第一面を、ブルカを脱ぎ、含羞を帯びた笑顔の女性のカラー写真が飾った。これが解放の象徴だとでも言いたげに。彼女は疑わしげでもあるが、自由を希求していることは明らかだった。眉間にはまだ苦悩の皺が刻まれている。それでも尚、彼女の瞳は明るい眉の下で輝いている。こんなにも美しい人がブルカの中にいるのだった。

別の写真には手放しで笑う二人が写っていた。説明には「タリバンに強制されていたブルカの着用から五年ぶりに解放されて喜ぶ女性達」とある。もう一枚の写真には長い沈黙を経て、ラジオ放送に臨む女性アナウンサーの堂々たる姿もあった。あたかも突然氷が溶け始めてアフガンの戦禍に終止符が打たれようとしているかのように見える。だがこれが束の間の幻でないことを祈りたい。

実際のところ、所謂「テロリスト」とアメリカとの新型戦争が今後どのように展開するのかは誰にも予測できない。この間、老いも若きも女達は一体どこへ姿を消してしまったのだろうと思っていた。ブルカの下の彼女たちの実像を目撃する機会はなかった。そして子ども達はどうしているのだろう。「国際難民救援組織」によれば、推定140,000人の「目に見える」、つまり難民認定を受けた人々がパキスタンの難民キャンプに暮らしている一方、最近の戦でアフガニスタン領内の住処を失い、閉鎖された国境を突破してパキスタンに入り込んだ「目に見えない」、すなわち難民認定を受けていない人々が135,000人はいるということだ。

「おんなこども」のいない世界には活気がない。そして住処のないおんなこども(実は男も)は、とりわけこれからの季節には、痛ましい。情緒や感性の表現を抑圧されたところに本当の命はない。その国の日常生活を圧殺したのは何ものだろう。長い年月をかけて培われた伝統、習慣、幾多の習わしがそう容易く現代の戦で消滅するわけがないとは思う。女達は必ずどんな状況下でもそれらを維持していくに違いない。だがやはり、援助は要る。それが他国に科せられた最大の課題だ。誰も当事者の意に反した干渉をすることは許されないけれども。

世界中の女達が一様であれとは思わない。それぞれのやり方で生活を立てていければよい。但し、「伝統」に名を借りた悪しき因習は、「伝統、風習」とは別物だ。暴力から解き放たれたところでのみ、女達は花開く。男達も目に見える戦ばかりでなく、内的な戦から、女達の元へ帰ってこられないものだろうか。

笑顔の女達は美しい。人間的な尊厳と品位に満ちた笑顔を、もしかすると日本の女達の多くが、忙しさに追われるうちにどこかへ置き忘れてきたかも知れない。深い情緒に溢れた笑顔を取り戻さなくてはならないのは、我々の方だったろうか。人と暮らしを慈しむ笑顔。幾枚かの小さな新聞写真に触発されて、もうすぐ東京の会場で開かれる写真展『アフガンの女性と子ども達』を学生と一緒に見に行くことになった。もっと沢山の美しい人々に出会えるような気がする。

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ラ・フランス

11/11(日), 2001

駅舎の一角に小さなマーケットがある。野菜、果物、肉、魚、その他多種多様な日常の食材が中心の店。輸入チーズだとかワインなど、洒落たものは置いていない。しかし旬の生鮮食品なら何でも揃う。現金のみで、クレジットカードは受け付けない。一フロアーによくぞこれだけと思うほど色々な品が並べられ、積み上げられ、棚やケースに仕分けされている。贅沢品こそ無いけれど、店には活気が漲っている。帰宅途上私は大抵ここへ寄ってその日の食料を調達する。

嘗て数ヶ月海外に滞在したあとでこの店に踏み込んだとき、狭い店内に唸るほど「日本食品」が詰まっているのを見て私は圧倒され、感無量だった。品揃えの多彩さに戸惑うほどだった。本当に、この溢れるほど豊富な品物の中から好きなものを選んでよいのだろうかとたじろいだ。皮肉なことに、人はすぐ豊富さに慣れる。日常生活を取り巻く環境にあっという間に飲み込まれ、驚きの感覚を失うのに時間はかからない。だが、たまに珍しいものに出会うとあの新鮮な感覚を思い出す。

ある日私は店の前で青果を商う若い店員に呼び止められた。「ラ・フランス、安くしとくよ。一山980円、二山1500円でどう。特別大安売り、お客さん!」私は洋梨など滅多に買わない。長十郎や二十世紀に比べると値が張るし、馴染みがないので敬遠してしまう。躊躇っていると、「こんないい買い物、滅多にないよ。買わなきゃ損。美味しいよ。保証するから。さ、持ってって。」ことばの魔法にかけられて、私は二山買っていた。

ラ・フランスは完熟状態だった。その夜がピークだったと思う。芳香、甘さ、果肉のとろけるような舌触り、いずれも得も言われぬ麗しさ。本当によい買い物だったと私は満足した。だが、ふと気付けば翌日には熟れすぎてしまうに違いない。まさか一夜で全て食べ切れるわけもなく、そのままにしておけば数日で腐るのは明らかだった。何とかしなくてはならない。どうやって保存したらいいだろう。

レシピとて手元になかったが、私はコンポートなるものを作ってみようと決心した。大凡の見当を付けて、梨を剥き、スライスし、平底鍋に敷き詰めて、三温糖を袋からボトボトと注ぎ、料理用白ワインを振りかけ、オレンジを一個分搾り入れる。あとはとろ火にかけて小一時間。再び蓋を取ったとき、果肉はすっかり透明になって甘い香りを振りまいていた。おや、うまくいった。しかしこれを食べきれるだろうか。来る日も来る日もこのままデザートにするのか、梨のタルトにでもするのか、パイに焼くのがいいのか、それともゼリーにすべきなのか。持て余して捨てるようなことはしたくない。実のところ、私は食事のための料理は厭わないが、菓子作りは不得手と来ている。習慣にないのだ。菓子作りをしようとしてしくじったことなら幾度かある。漸く焼き上げたチョコレートケーキを、お客が来る直前に床に落として慌てて拾い上げ、まるで何事もなかったかのような顔をして皿に戻すと、笑顔でお客に勧めた記憶が今も胸をよぎる。

菓子作りは正確さが要求される化学の実験に似ている。指示通りにやれば真っ当な結果が得られるけれども、不注意だったり大雑把だったりすると、そのいい加減な態度の始末は付けさせられる。複雑で何段階にもわたる製作手順を踏むのがどうも面倒でいけない。菓子作りに入門するより、縁無き衆生でいる方が楽だ。そんなことを考えているうちに億劫になってきて、私はコンポートを密封容器に入れると、冷蔵庫の奥深くへ収納した。先延ばしが私の習い性である。

しかし、流石に一週間も経つと放ってはおけなくなってきた。ラ・フランスを何とかしなくてはならない。今手を動かさないと、多分迷宮入りになるだろう。「大安売り」の名が廃る。私は冷凍パイシートを買ってきた。パイを焼くのが最も簡単な解決策のような気がしたものだから。パッケージに書いてある通りにすれば間違いようがないはずだ。私はおもむろに開封すると、作業に取りかかった。そして指示通りにしたつもりだった。おんぼろオーブンも申し分のない働きをした。やがて甘い香りが部屋に満ち、オーブンからは黄金色のパイが出てきた。恍惚の一瞬だった。

見かけと実態の違い--これがシェイクスピアの大テーマの一つであることはよく知られている。私の作ったものは、パイのように見えた。だが期待されるパイとは似ても似つかないものだった。サクサクした歯触りのよいパイ皮がない。代わりに、べったりした生焼けのプディングとでも言いたくなる妙な皮があるのみ。あ、と思った。私はパイ皿のサイズに合わせようとして、冷凍パイシートを思い切り丸めたり伸ばしたり叩いたりした。パッケージに書いてあった「手早く素早く扱うこと」という第一の指示文を完全に無視し、何層にも重ねられて程良く空気を含んだパイ生地を台無しにしてしまったらしい。あんな単純なことばにも従えないとはなんたる間抜け。

奇妙なパイ皮の中にあってさえ、洋梨のコンポートは美味だった。せっかくの優雅な名前に相応しい菓子が作れなくて、私は果物に済まないような気がした。菓子作りなどこともなくこなす人のキッチンに行けば、相応しい扱いを受けたであろうに。菓子作りは、一朝一夕に修得出来るものではない。生活の中に収まっているものでないとうまくはいかない。生活習慣が台所の歴史を作る。それなりの時間と精力の傾注がいる。私は生活の中で如何に多くのものを切り捨ててきたかを思った。そうせざるを得なかった、と言えるだろうか。難なくパイを焼く暮らしがこれから築けるものだろうか。ラ・フランスはエレガントに私にそう問いかけている。驚きにも戸惑いにも果てはない。

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転倒

11/6 (火), 2001

夕暮れ時、駅の階段を下りきったところで転んだ。ものの見事に両手を伸ばしてバタッとプラットホームに倒れ込んだ。(「ああ、これは漫画『じゃりんこチエ』のヒラメちゃんの転び方だ、と妙に感心する。)男の人の声が、「大丈夫ですか」と言っているのが聞こえた。「はい、大丈夫です」とおうむ返しに応えて、何とか立ち上がり、私は電車に乗り込んだ。座席にへたり込むと、頬骨、片胸、膝がズキズキしている。胸が痛くてよく息が出来ない。バッグから手鏡を取り出し、顔の様子を見る。外見上はそう大したこともない。私は身を固くして混乱状態をやり過ごすしかなかった。

幼い頃には、転倒することなど日常茶飯事だった。子どもはすぐ立ち上がって、何事も無かったようにまた動き回る。泣く子もいるが、すぐ忘れる。転ぶなんて恥ずかしくも何ともない。だが、ひとたび成長すると、人は滅多に転ばなくなる。大人が転ぶと、周囲の人間はハッとして転んだ人を見つめる。私も誰かが人前で転ぶと、おや気の毒にという目で見てから、横を向く。大人の転倒には何か禍々しい背景があるような気分がするからだろう。

転んだとき、私は上の空だった。数ヶ月来胸に蟠っている考えに捉えられて、思い出すともなく思い出していた。どう足掻いてもなかなか離脱できない固定観念は始末に負えない。私は自分の想像上の障害物に足を取られたように思う。しかし、コンクリートのホームにしたたかに打ち付けられた瞬間、私の観念は綺麗さっぱり頭から消えていた。まるで邪念が吐き出されたかのように。観念だけの問題ではない。靴だ。靴がいけない。週に数回のこととはいえ、通勤時間を含めて、長時間立って仕事をし続けるうちに、私の足はだんだん変形してきた。俗に言う外反母趾というもの。合う靴がなかなか見つからない。少しでも先端が尖っていたり、傾斜角が合わないと痛む。何度も修繕に出した今の靴は、靴の方が私の足の形になってしまった。けれども流石に限界らしい。履いているというより突っかけているような状態で、靴は本来の用をなさなくなっていたのだろう。やはり転ぶにはそれなりの原因がある、と思った。

打撲した胸が痛んだ。頬も痛んだ。すりむいた膝も痛んだ。ついでに心が痛んだ。窓の外は既に闇。こんな場合の私は大抵一人芝居に興じる。くさい台詞も厭わない。「立ち上がるのよ。転んだときに出来るのは自力で立ち上がることだけ。地べたに倒れたままでいる子どもなんかいやしないでしょうが。幼いものから学ぶがよろしい。自分も母親のくせに。分別を持たなくちゃ。女らしく生きなさいよ。誇りを持って。誰も同情しやしないから。立ち上がりなさい。何度でもやり直しなさい。転んでも、ただじゃ起きないはずじゃなかったの?」

そういたしましょう。遠い地平線を思うこと。日はまた昇る。

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美しい老い

10/26 (金), 2001

スクリーンで女優ヴァネッサ・レドグレーヴに会うのは三度目だった。高校生の時に初めて、アーサー王の后にして、円卓の若き騎士ランスロットと恋に落ちる『キャメロット』のグェナヴィア役を、二度目には劇作家リリアン・へルマンのオックスフォードを舞台にした青春伝『ジュリア』にてお目にかかり、今漸く『ダロウェイ夫人』の主役のヴァネッサに出会えた。

1998年夏、私は東京神保町の岩波ホールへその映画を見に出かけた。当日初回の上演時間よりかなり早めについたはずだったが、既に入場券は売り切れていた。すごすごと帰るより他無かった。とても暑い夏だったせいか、もう一度出かけようという気にならなかったと見える。ぐずぐずするうちに時が過ぎてしまった。

何度かライブラリーからビデオを借り出したこともあったのに、何だかんだで見損ない、やっと今日テレビ画面の前に座った。どういうわけで遂にビデオカセットをスロットに入れたのかよく分からない。突然、私はクラリッサ・ダロウェイの後について1923年のロンドンの街に入り込んでいた。ヴァネッサ・レドグレーヴは威厳と優美さと絶望感に溢れていた。それらは勿論、主人公クラリッサのものなのではあるけれども。

私がヴァージニア・ウルフの原作を読んだのはかれこれ十年前。何度かメモを取りながら読み返した覚えがある。私は論文を書こうとしてた。その作品を選んだ理由は「意識の流れ」と呼ばれる小説技法に関心があったため。ウルフの技法とジョイスの技法を比べてみたかった。端正な上品さと通俗性の極みがどのようなコントラストを示すか確かめてみたいと思った。この二人の作家達は、人の心理を作品化することに興味があるという共通性にもかかわらず、互いに憎み合っていたとすら伝えられている。

『ダロウェイ夫人』と初めて出会ったのは三十代の終わり頃ということになる。当時は、クラリッサが何をし、何を思い、何を感じているのか分かったと思っていた。今にしてみれば、とんでもない誤解だったようだ。彼女が選び取ったつもりの人生。彼女の行動様式。何故ピーターと結婚しなかったのか。彼女の幸福と不幸。何にもまして、私は今初めて彼女の恐れと誇りについて感じる。それは加齢に対する恐れであり、自身の生き方についての誇りとも言えるだろう。自分が創りだしてきた人生。それに対する責任感。そして、愛情も。

クラリッサの自己中心的な意識を責めることは出来ない。彼女の脆さ、感受性が、自殺した若者セプティマスのすぐ隣に位置することを映画はよく示していた。彼は第一次世界大戦で受けたトラウマから遂に逃げ出すことが出来なかった。それは今の時代、形こそ違え誰にでも起こりうることだ。最初に読んだときにはこの二人の近似を全く理解できていなかったようだ。私はむしろセプティマスのイタリア人妻に惹かれていた。彼女の、苦悩する夫に対する献身、絶望しながら生きる男との人生の困難などに。私はクラリッサとセプティマスという実際の人生では余りにも遠く、関わり合いのない二人の近さに注目しなかった。片や中産階級の地位も名誉もある初老の女性、片や「精神の均衡を欠いている」と診断され続ける貧しい若者。真実は、彼らは誰よりも互いに近い。「均衡を欠く」ことから逃れられる者は居ない。クラリッサはその事実を勇敢に認め、伝え聞いた見知らぬ若者に誰よりも深い理解と同情を持って、自らは生き延びていくことを決意する。

加齢は醜い現象だろうか。決してそんなことはない。少なくともクラリッサ・ダロウェイを演じるヴァネッサ・レドグレーヴを見れば。己を知ろうとする意志を失わない限り、人生は美と尊厳に溢れて続いていくものだと感ずることが出来る。

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初体験

10/18 (木), 2001

生まれて初めてピザを食べたのは高校生の時だった。教会に来ていたアメリカ人が横田基地内の自宅に招待してくれた。正直のところ、私は英語で話しがしてみたいがために教会に通う不心得者だった。アメリカから「よきサマリア人」と称する若者の一団が訪日したときにも、英語で交流できる面白さに惹かれて、教会のペンキ塗り奉仕に勤しんだ。当時の私は宗教上のジレンマにも政治(日米関係、とりわけ安保問題)にも真剣に対峙していなかった。文字通り単純な精神構造だったのか、そのように振る舞っていたのか、既に判然としない。

「とても美味しいです」と、私はピザを食べながら言った。
「そう、よかった」と鷹揚な女主人。
「私、ピザ食べるの初めてなんです」と私は続けた。
「最後はいつになるのかね。」
その家の一番年かさの息子が言ったことばの皮肉な調子に私は気付いた。彼の目は笑っていなかった。それが語られる英語に恐ろしさを感じた最初だ。

あれから様々な「初体験」を経てきた。良いことも悪いことも、美しいことも醜いことも、幸せなことも悲しむべきことも。但し、それがどのようなものであれ、常に変わらず私が初めてのことに感ずるのは好奇心である。自分を観察している自分がいる。こやつはその体験をいつの日にか必ず書くか語るかしようと虎視眈々としている。

私の最新「初体験」は現代の科学技術の粋を凝らした医療機器による体内検査。一週間前には大きなCTスキャンの機械に入った。堅いプラスチックベッドに横たわり、私は頭の周りを巨大なドラムが回転する様子を眺めていた。ああ、今脳味噌や眼球が輪切りにされているのだなと感じながら。数日後、医師達はその輪切り写真を前に、次回はMRIをやって貰いましょうかという。フィルムを示しながら、「ほら、ここに何かあるでしょう。眼球の後ろです。これがどんな種類のものか調べる必要があります」と言われては、選択の余地もない。よろしい、輪切りだろうと固まりだろうと、検査していただきましょう。

私はMRI検査室でパジャマのような検査着をまとった。鏡の中には紛う方亡き「患者」がいる。何故こういう着物を縞柄にするのだろう、誰でも病気に見えるじゃない、とひとりごち。長年外したことのない結婚指輪を苦労の末何とか抜き取る。金属はどんなものでも低温火傷の原因になると言う。こうして世俗の身分証明は全てはぎ取られ、私はまたしても堅いプラスチックベッドの上へ。今度は深いトンネルへと運ばれていく。

技師が言うには、動いてはいけない、どんな音が聞こえてきても気にしてはいけない、緊急の際助けを呼びたければこのゴムボールを握って合図するように、と。これだけ聞けば誰でも震え上がる。一体「緊急事態」とは何だろう。

私は目を閉じた。技師によれば、瞼を閉じていても眼球は動くのだそうだ。きょろきょろしてはいけないと言う。難しい注文だ。果たして人は夢を見るとき眼球を動かすのだろうか。この問題について語り合ってみたいと思ったけれど、相手にしてくれそうもないのでよしておいた。チューブ型トンネルの中で、私はSFのタイムカプセルかタイムマシンに入れられたような気がした。奇妙な音が聞こえ続けていた。それらはまるで子どものテレビ番組でよく聞く効果音さながらの「いかにも」の音だった。キューン、バリバリ、ガガガ、グワァーン、キーン、等々。自分がアンドロイドに変身していくのではないかと思ったほど。

自慢するほど好奇心も長続きはしなかったようだ。私はそんな音を聞き、体に伝わる微動を感じながら、いつの間にか眠っていた。チューブから取り出されたとき、短い午睡から目覚めた。そして再び世俗の所有物を身につけることを許され放免になったが、これで解放というわけではない。検査対象の私には直接その場で何の結果も知らされない。医師達がこれから分析検討を加えて、情報を伝達することになる。自分のことについて自分は何も知らないという不可解な状況が続く。

この「初体験」が一度限りで終わるのでないことはよく知っている。似たようなことがこれから繰り返されるだろう。無垢な状態は長続きしないものだ。一口の林檎がイヴの人生を完全に変えてしまったように。それが万人の歩む道。

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別れ

10/14 (日), 2001

チャイムが鳴ったので玄関を出ると隣家の主人が立っていた。隣同士余りにも敷地が狭いため、私たちが別の街からここへ引っ越してきたとき、間にフェンスを立てずにおこうという申し合わせをした。家屋が接近しすぎていることで、むしろ互いに交際を避けてきた。密集した場所で平和を保って暮らすための一種の知恵だと割り切って。突然の訪問に、私は何か予期せぬトラブルが持ち込まれるのかと思った。

実際には、彼は別れを告げに来たのだった。奥さんを二年前に亡くして以来、義父に当たる九十歳の老人と同居し続けていた。二人の娘達は既に独立して家を出ている。この隣人は不思議なくらい静かな生活を送っていた。時たま出会っても優しい笑顔を向ける程度で、親しく話しをしたこともなかった。とても近くに住みながら、とても遠い人だった。

彼は、この家を出ることにしましたと言う。代わりに老人の実の息子が来るはずだ、とも。

「つまり、ご家族で移っていらっしゃると言うことでしょうか。」
「いえ、一人だと思います。もう別れて随分になるはずですから。」
「これはどうも、余計なことを伺いまして。」
「いいんです。こうする方がみんなのためにいいだろうと。実の父子の方が義理の私なんかより。」
「さあ、どうでしょうか。寂しくなりますね。」
「たまには寄るつもりです。」
「そうなさってください。これからどちらへ行かれるんですか。」
「弟が会社やってるもんですから、その近くへ。」
「そうですか。それならご安心ですね。」
「十年、お世話になりました。失礼します。」
「こちらこそお世話になりました。どうぞお元気で。」

私は玄関の扉を静かに閉めた。そしてこれがその人と今までに交わした一番長い会話だったことに気づいた。温厚な紳士。妻と五十代半ばで死に別れて。人生は不公平だと思った。我が隣人についてはっきり覚えている唯一の出来事は、ある日彼がオートマチックの新車操作を誤って、フルスピードで前後に暴走させ、向かいの家の塀と自宅のリビングの窓ガラスを粉々にしてしまった事故のことだ。この界隈の誰もが驚愕した。やっと車から引っ張り出されたとき、彼は魂の抜けた様子をしていた。奥さんがもし今も生きていたなら。

彼はひっそり立ち去った。別れは突然やってくる。

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リバイバル

10/11 (木), 2001

数週間、私は怠惰の極みにいた。新しい化粧水がいるのに、歯ブラシも必要なのに、そして学生達にあの懐かしいボブ・ディランの「風に吹かれて」とブルース・スプリングスティーンの「戦争」を聴かせようと言ったのに、何も出来ずにいた。二曲とも使用中の教科書『若き魂の叫び--心に語りかける歌』に収録されている。こんなものを私は詩のクラスで読んでいる。本物の詩歌、つまり古典的なものを読む前の準備運動に音楽と歌詞を提供しようと選んだ。それが随分長引いている。そして此の懐メロじみた選曲は、今また戦争が始まっているから。それを知りつつ私は動けずにいた。

「戦争が何の役に立つ/全く何の役にも立ちはしない」とスプリングスティーンは繰り返す。初期のディランの柔らかな語り口で歌われる抵抗フォークとは対照的な直接の叫び。この二曲を職場のテープライブラリーで随分探したけれど、無駄だった。長い歴史を誇る割にはスタンダードな曲が残っていない。学生にも聞いてみた。もしや親御さんがフォークやロックのコレクションの中にこんな曲をお持ちでないかと。誰もあるとは言わなかった。もう自分で購入するしかない。怠惰な日々に、随分時間の無駄をした。

今日、漸く重い腰を上げて、わが街のCDショップに足を踏み入れた。ここの主人は口ひげを蓄え、なかなか充実したホームページをよく手入れしている。輸入盤の新譜旧譜の品揃え、素早い取り寄せは沿線でも評判だ。普段は寡黙だが、客のどんな質問にも即答している様子から、あらゆるジャンルの音楽に博識であることがよく分かる。小さなカウンターの後ろにいつも立っている。座っているのを見たことがない。

ほんの僅かな行動で、聴きたかった曲が手に入った。二曲とも簡潔で力強い。時の浸食をものともせず、独自のメッセージは色褪せていない。最新の戦争にも有効だ。「戦争が何の役に立つ/全く何の役にも立ちはしない」と同様、もう一曲も語る。

そう そして 一体いくつの屍を重ねたら
余りにも多くの人間が死んだことが分かるのだろう
友よ、答えは風に吹かれているばかり
答えは風に吹かれているばかり

おまけに今日は長時間、国連職員の書いたアフガニスタンレポートを読んで過ごした。報告に依れば7,500,000人もの人々が飢餓で死の淵を彷徨っている。アメリカとその同盟国のハイテク戦はテロリストのみを照準に入れていると言うけれど、とんでもない話しだ。戦争の愚。蘇る古い歌がはしなくも暴く。明日には私は怠惰を抜け出し、音楽と歌詞を携えて教室へ行くだろう。学生達は既に課題曲の試訳とコメントを私設BBSに投稿し始めている。活動的な若い女性達。私も後からついていこう。

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見える目

10/10 (水), 2001

目玉があるのを当たり前だと思っていた。見えるとか見えないとかいう身体的機能に取り立てて注意を払ったこともなかった。「盲目」は観念的な語彙の中にのことばに過ぎなかった。最近、誕生会の席上私の母は孫子に向かって、左目が殆ど見えていないと言った。数年前、白内障の手術をした直後、「空は本当に青かったんだねぇ」と嬉しそうに言っているのを聴いた記憶も新しいのに、視力がどんどん衰えているらしい。早く医者に診て貰えと子供らが言うのを母は聞き流しているようだった。

実は私も数ヶ月来眼疾に悩まされているとは言出せなくなった。母が自分のことは棚に上げて、娘の不調をことのほか気にするのが想像できるだけに。母親はとかくそんな風だ。手に取るように分かる。しかし、余り気にかけられるのは鬱陶しい。とりわけ、母親から独立したくてたまらなかった娘は、心配されることを有り難がるより煩わしがる親不孝者。良心がチクチク痛んでも、放っておいて欲しいと突っ張る。自分でなんとでも出来るわよと生意気を言う癖がいくつになっても抜けていかない。

とはいえ、私は自分の中の矛盾にも気づいている。すぐ人のお節介を焼きたがる。十分な援助が出来るわけでもないのに、気遣わしげな態度で接近し他人の問題に関わろうとする。そこから出来する問題にいずれ必ず苦しむくせに「関与」というものの持つ恐ろしさに考えが及ばず、迂闊に様々なことに手を染める。しかしその安易な「好意」が制御不能なところへ自分を導くことに思いが至らない。何という愚か者。

自分では周りのことが「見えているつもり」でいる。だが本当はことの核心を見抜く力などない。水の面をかき乱していつしか自分が溺れていく。一見変哲のない水たまりが底なし沼だったとは気づかずに。賢い人は水際に近寄ることさえしないだろう。迂闊に他人に関与したがる者は、根本的に無意識の「他者依存症」なのではないかと思う。(母親の多くにこの傾向があるような気がする。)こうした心的性情から逃れ出たいと願い始め、未だに果たせずにいる。お節介な母親も姉貴も実に鬱陶しい。

左目の瞼が重く腫れ始めてから数日たつ。眼科医にすぐ専門病院へ行けと命じられた。罠に捉えられた気分がする。生まれて初めて、目の見えない状態を想像してみた。自分が障害について如何に無知であるかを思った。視力を失うという状態を思い描いて慄然とする。見えている状態は身体機能中最上の恵みの一つではないのか。人は既に得ているものに感謝の念を払わない。

失いかけて初めて人はその重要性と尊さに思い至る。溺れそうになったとき初めて岸辺が「見える」のだろう。「可能な内に見ることを学べ」と私は自分に言い聞かせる。悲しいかな、人は苦しみに出会わなければ命の意味にも気づかない。早起きをして、職場ではなく病院に向かった。病む人々に溢れるフロアー。新米患者の私。自分が患者である状態に慣れない。患者であることは「忍耐強くあれ」ということ。このようにして、私は「他者依存癖」を抜け出す第一歩を踏み出そうとしている。

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「情景描写」開設に寄せて

10/6 (土), 2001

メール友達の一人から便りが届いた。長い間ベッドで生活している人。彼は詩人だ。最近急病で入院を余儀なくされたという。入院中はテレビもラジオも新聞も、ましてやパソコンに触れることもかなわなかった。にもかかわらず、淡々とした筆致で「そのようなものから少し離れてみるのも良いものです」と。私は彼の心根に深く感ずるものがあった。それほどの困難からどうやって斯くも清明な境地を得たのだろう。長いメールの最後に「三行日記が更新されるのを期待しています」という言葉。私は恥じ入る。いつまでも自分の痛みに耽溺しているのが如何に愚かなことか気づかずにはいられない。何が起ころうとも人生は続いていく。

まだしばらく「三行日記」は再開できない。でもその代わり、「情景描写」という新ページを日英両語で開設してみようと思う。不定期更新、長さにも制限なしの気ままなページとしておこう。「エッセイ」と呼ぶには短すぎる、メモ程度のもの。格好は悪いがそこで思うこと感じることを解き放ってみたい。私の内面の情景と外界の情景をともに観察したスケッチというほどのつもりで「情景描写」。

人は書かずにいられないから書く。それだけが書く理由になる。技法はその欲求にあとからついてくる。負の力であろうと正の力であろうと、書きたい気持ちは止められない。友人に感謝している。何を躊躇うのかと背中を押された気がする。「三行日記」再開まで、暫くここで書いていよう。彼の目に触れると良いが。

掛け値なしに、書くことには喜びがある。読み手がいてくれる幸せもある。ウェッブが誰にも等しく自由にものを書く場であり続けてくれることを祈る。サイバーテロや「検閲」を何としても阻まなくてはならない。書き続けることによってのみ、我々の声がこの世に響くならば。私も書かせて貰いたい。

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