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『読んで得する翻訳情報マガジン トランレーダー・ドット・ネット』掲載

「翻訳読書ノート」 by Keiko

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No. エッセイのタイトル 取り上げた書籍のタイトル・著者・翻訳者 掲載日時
48

「アーティストは藝術家」

『若い藝術家の肖像』(ジェイムズ・ジョイス著 丸谷才一訳 集英社 2009)

31/12/2009
47

「亜大陸の白虎」

『グローバリズム出づる処の殺人者より』(アラヴィンド・アディガ著 鈴木恵訳 文藝春秋社 2009)

11/12/2009
46


「音楽の響く小説」

『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ著 土屋政雄訳 早川書房 2006)

19/11/2009
45


「ドキュメンタリーの魂」

『倒壊する巨塔 アルカイダと9.11への道 上・下』(ローレンス・ライト著 平賀秀明訳 白水社 2009)

29/09/2009
44


「詩人たちからの贈り物」

『マザー・グースの歌 第1集〜第6集』(谷川俊太郎 訳 イラストレイション 堀内誠一 草思社 1975), 『オフ・オフ・マザー・グース』(和田誠訳 筑摩書房1989)、『またまた・マザーグース』(同 1995)

15/05/2009
43

「人から人へ受け渡されるもの」

『親の家を片づけながら』(リディア・フレム著 友重山桃訳 ヴィレッジブックス 2007), 『親の家を片づけながら 二人が遺したラブレター』(同 2008)

24/03/2009
42

「生命水はどこに?」

『パリデギ 脱北少女の物語』(黄ソギョン著 青柳優子訳 岩波書店 2008)

26/01/2009
41

「猫談義、米国流」

『図書館ねこ デューイ 町を幸せにしたトラねこの物語』(ヴィッキー・マイロン著 羽田詩津子訳 早川書房 2008)

14/11/2008
40

「ロシアの奔流」

『チェーホフ・ユモレスカ』『同II』『同III』(アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ著 松下裕訳 新潮社 2006, 2007, 2008)

17/09/2008
39

「バイリンガルであるということ」

『通訳/インタープリター』(スキ・キム著 国重純二訳 集英社 2007)

18/07/2008
38

「甘くて苦い闇の奥」

『チョコレートの真実』(キャロル・オフ著 北村陽子訳 英治出版 2007)

25/05/2008
37

「オオカミが来た!」

『神なるオオカミ』上・下(姜戎((ジャン・ロン))著 唐亜明・関野喜久子訳 講談社 2007)

07/03/2008
36

「記録された市場の全貌 」

『築地』(テオドル・ベスター著 和波雅子/ 福岡伸一 訳 木楽社 2007)

08/12/2007
35

「グローバルに考える平和と歴史」

『ピースメイカーズ −1919年パリ講和
会議の群像−(上)(下)』(マーガレット・マクミラン著 稲村美貴子訳 芙蓉書房出版 2007年)

21/09/2007
34

「メディカル・サイエンスの揺籃期」

『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』(ウェンディー・ムーア著 矢野真千子訳 河出書房新社 2007年)

7/07/2007
33

「人類であることの孤独」

『百年の孤独』(G・ガルシア=マルケス著 鼓直訳 新潮社刊 2006年 / 原作出版は1967年、鼓訳は1999年の改訂版)

26/04/2007
32

「イランを語る声」

『テヘランでロリータを読む』(アーザル・ナフィーシー著、市川恵里訳、白水社 2006)、『イラン人は神の国イランをどう考えているか』(レイラ・アーザム・ザンギャネー編、白須英子訳、思草社、 2007)

8/03/2007
31

「アフリカの魂」

『生かされて。』(イマキュレー・イリバギザ、スティーヴ・アーウィ
ン著 堤江実訳 PHP研究所刊 2006)
14/12/2006
30

「悪童を産んだひと」

『文盲 アゴタ・クリストフ自伝』(堀茂樹訳 白水社 2006)『どちらでもいい』(堀茂樹訳 早川書房 2006)『悪童日記』他 19/10/2006
29

「グーグル未完の物語」

『Google誕生/ ガレージで生まれたサーチ・モンスター』(デビッド・ヴァイス/マーク・マルシード著 田村理香訳 イースト・プレス刊 2006 25/8/2006
28

「メソポタミアからの手紙」

『砂漠の女王-イラク建国の母ガートルード・ベルの生涯』(ジャネット・ウォラック著 内田優香訳 ソニーマガジンズ発行 2006 26/6/2006
27

「勝負の相手」

『ケイトは負け犬じゃない』(アリソン・ピアソン 著、 亀井よし子訳、 ソニーマガジンズ刊  2004年) 7/4/2006
26

「啓蟄を待ちながら」

『ファーブル昆虫記 第一巻上・下』(ジャン=アンリ・ファーブル著、 奥本大三郎訳、集英社刊 2005 10/2/2006
25

「数学世界への招待状」

『素数の音楽』(マーカス・デュ・ソー トイ著 富永 星 訳 新潮社 2005) 25/11/2005
24

「蛙三昧」

One Hundred Frogs (ed. Hiroaki Sato, illustrations by J.C. Brown, Inklings edition, Weatherhill1995) 29/9/2005
23

「母性をめぐる知の饗宴」

『マザー・ネイチャー』「母親」はいかにヒト を進化させたか』(サラ・ブラファー・ハーディー著 塩原通緒 早川書房 2005) 9/7/2005
22

「霧のなかへ、私も」

『霧のなかの子--行き場を失った子どもたちの物語』(トリイ・ヘイデン著 入江真佐子訳 早川書房 2005) 13/5/2005
21

「直喩としての活火山」

スーザン・ソンタグ著『『他者 の苦痛へのまなざし』(みすず書房 北條文緒訳 2004年)』 『火山に恋して』(富山太佳夫訳 みすず書房 2001年)『この時代に想う/テロへの眼差し』 (木幡和枝訳 NTT出版 2002年)『良心の領界』(同 2004年) 10/3/2005
20

「トルコの紅に魅せられて」

『わたしの名は紅』(オルハン・パムク著 和久井路子訳 藤原書店 2004) 25/12/2004
19

「生きて証しすること」

『生きな がら火に焼かれて』(スアド著 松本百合子訳 ソニーマガジンズ 2004) 2/12/2004
18

「若い旅路」

エルネスト・チェ・ゲバラ著『モーターサイクル 南米旅行日記』(棚橋加奈江訳 現代企画室 2004), アルベルト・グラナード著『トラベリング・ウィズ・ゲバラ』(池 谷津代訳 学習研究社 2004) 16/10/2004
17

「ティーンズのために」

アレックス・シアラー著、金原 端人訳『チョコ レート・アンダーグラウンド』(求龍堂 2004)、『13ヶ月と13週と13日と満月の夜』(同 2003)、『青空のむこう』(同 2002) 17/9/2004
16

「象徴の迷宮」

『ダ・ヴィンチ・コード』上・下(ダン・ブラウン著 越前敏弥訳 角川 書店 2004)

13/8/2004
15

「出口を求めて」

OUT 桐野夏生著 Stephen Snyder 訳 講談社インターナショナル 2003年) 23/7/2004
14

「日本と世界の距離」

In the Miso Soup (村上龍著 ラルフ・マッカーシー訳 講談 社インターナショナル 2003) 25/6/2004
13

「語る人、聴く人」

『ナイン・インタ ビューズ 柴田元幸と九人の作家たち』(柴田元幸訳・編 アルク 2004 年) 29/5/2004
12

「純愛の衝撃」

『冬のソナタ(上・ 下)』(キム・ウニ/ユン・ウンギョン著 宮本尚寛訳 NHK出版 第14刷 2004) 20/4/2004
11

「存在の重力」

ミラン・クンデラ著『微笑を誘う愛 の物語』(千野栄一・沼野充義・西永良成訳 集英社 1992)、 『冗談』(関根日出男・中村 孟 共訳 みすず書房 1992)、『存 在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳 集英社 1993) 18/3/2004
10

「彼女の物語」

『リビング・ヒストリー ヒラリー・ロダム・クリントン自伝』(酒井 洋子訳・早川書房 2003) 19/2/2004
9

「モダン」を超えて

『ある男の聖書』(高行健Gao Xingjian著 飯塚容 訳 集英社 2001)、『霊山』(同 2003) 23/1/2004
8

「ことばの艶」

『Man'yo Luster 万葉集』(英訳・リービ英雄 写真・井上博道 アートディレクション・高岡一弥ビエ・ブックス 2002年) 24/12/2003
7

「マリーの情熱

『マリー・キュリー1, 2』(スーザン・クイン著 田中京子訳 みすず書房 1999年) 26/11/2003
6

文庫になった『ユリシーズ』

『ユリシーズI・II』(ジェイムズ・ジョイス著、丸谷才一・永川玲二・ 高松雄一訳、集英社文庫ヘリテージシリーズ) 24/10/2003
5

「ダロウェイ夫人再び」

マイケル・カニンガム著 『めぐ りあう時間たち/三人のダロウェイ夫人』(高橋和久訳 集英社 2003) 13/8/2003
4

「翻訳畑の大収穫」

J.D.サリンジャー著、村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』 (2003 白水社) 9/6/2003
3

「解き明かすことば」

リチャード・ドーキンス著『利己的な遺伝子』(紀伊國屋書店 日高敏隆・岸由二・羽田節子・垂水雄二・共訳 1991) 23/4/2003
2

「ことば選びのセンス」

『センス・オブ・ワンダー』(レイチェル・カーソン著、上遠恵子訳、新潮社1996年刊) 5/3/2003
1

『朗読者』と「翻訳者」

『朗読者』 (ベルンハルト・シュリンク著 松永美穂訳 新潮クレストブック) 17/2/2003

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翻訳読書ノート48

「アーティストは藝術家」

半世紀以上も倦まず弛まず情熱を捧げ続ける対象を得た人生は幸福であろう。丸谷才一はジェイムズ・ジョイスで大学の卒論を書いてキャリアをスタートさせ、自身が小説家・文芸評論家となって一家を為し、今またジョイスの新訳を上梓した。ジョイスの好きな「円環」を地でいく。落ち着いたコバルトブルーの表紙には日本語で、裏表紙には原語でその堂々たるタイトルが印字されている。『若い藝術家の肖像』(ジェイムズ・ジョイス著 丸谷才一訳 集英社 2009)という、このずっしりと重い(820g!)単行本を取り上げる読者はいかなる人々であろうか。

総ページ数の1.2%(65ページ)は丸谷自身の小説解題である。のみならず各ページの下段20%は脚注に充てられている。そうでもしないとこの重層構造を持つテキストを日本語で味わうことが出来ないと訳者は考えるからであり、調べれば調べるほど掘り出されるヨーロッパ文化(とりわけキリスト教と古典芸術にまつわる蘊蓄)の奥深さ・幅広さを日本語に表す方法はないと彼が確信するからであろう。もちろんジョイスの故郷であり終生作品の舞台となったアイルランド、ダブリンの地誌や歴史についても同様である。ページをめくりながら私は心の内で「これぞ筋金入りのマニア、正真正銘のオタクだ」と快哉を叫んでいた。

しかし、この本を通勤電車で読むのは苦痛である。(重すぎる。)ゆったりと構え、図書室か自宅の机(食卓でもOK!)に広げるしかない。何にも邪魔されずに読書に耽溺できるなら、至福の時が過ごせるだろう。だが、この作品、初見の高校生が楽しめるか知らん?幼年時代と少年時代を描くI章、いよいよ性的な懊悩の始まる思春期II章までは文体の(比較的な)平明さに助けられてスラスラ行くはずだ。III章の地獄の説教あたりからリタイア組が出るかもしれない。(いや、ダンジョン巡りだと思えば受けるのかも。)そこを抜け、天命への問いかけ、拒絶、解放へ至るプロセスはスリリングだろうか。V章の美学論争、哲学・歴史・民族観などの「問答」はどうだろう。ただ面白いとは言えまい。けれども丹念な読書のあげくに最終行にたどり着いたなら、達成と高揚感が得られること間違いなし。

A Portrait of the Artist as a Young Man Ulyssesと並んでジョイスによる20世紀文学の精華とされている。こうして「新訳」で登場したかつての前衛的作品は未だ色褪せぬどころか益々面妖にテキストの迷宮へと読者を誘う。「導師」の役を買って出る翻訳者、丸谷才一のいかにもしかつめらしい、そして実はきわめてユーモラスなスタンスが、この本格的文藝作品に新たな命を吹き込んだ。どうか、返品の上裁断されるなどという多くの良書の運命を辿ることがないように!この翻訳は我が日本語の財産なのだから。

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翻訳読書ノート47

「亜大陸の白虎」

評判の映画を見逃すと、DVDとなりレンタルが始まるのが待ち遠しい。最近漸く『スラムドッグ・ミリオネア』を見た。スラム育ちの若者がテレビのクイズ番組で全問正解し、大金を手に入れる話と言えば単純化のしすぎだが、まさに天から垂れた一縷の糸にすがって地獄を脱出するようなスリルと光明を感じさせられるドラマだった。複雑なインド社会の一端を描く卓抜な作品といえよう。しかし、更に深くその世界に踏み込むことを望む人に、『グローバリズム出づる処の殺人者より』(アラヴィンド・アディガ著 鈴木恵訳 文藝春秋社 2009)は恰好の小説である。

題名の通り、これは書簡体モノローグである。田舎町の車夫の息子が、運転を習い覚えるチャンスを得て資産家の運転手に雇われ、インド社会の闇と光を召使いとして観察する。屈辱的経験を重ねた末、殺害した主人から奪った金を元手に起業家として成り上がり、訪印する中国首相に宛てて社会構造、家族制度、カースト制、伝統的価値観とその変化、都市と田舎、豪邸とスラムなど、インドの実像を克明に解説するという趣向だ。気鋭のジャーナリストである著者の描写はディテールまで鋭い。

民主主義的選挙の実態(賄賂、饗応、不正投票など)をはじめ、都市に建設の進む高層マンションの内部(地方豪邸の台所面積にも満たないフラット、召使い専用の地下室のありさま、肥満した金持ちのランニングの滑稽など)と足下の建築現場の汚濁、また人命のとてつもない軽さ(轢き逃げ事故、結核死、報復による惨殺など)、いわゆる先進国のお上品な常識の理解を遙かに超えている。

これは過去の歴史物語なのか、それとも最新の現代小説なのか。その答えは紛れもなく後者だろう。前述の映画で、スラムに育つ主人公は躊躇いなく糞壺に飛び込んだ。この小説で主人公は囚われの「鶏籠」から抜け出す。ジャングルで一世代にたった一頭しか現れないホワイト・タイガー(白虎)との自負あるいは妄想を胸に、託された幼い甥以外すべての係累を犠牲にしても、使用人や奴隷としての人生と決別する。たとえそれが殺人の上に成り立つものであったとしても。彼は光の世界を牛耳るものたちが人殺しと無縁だとは思っていない。皆、誰かしらを踏みつけて特権を得たことを熟知している。だから、現代の「罪と罰」に応報の必定は描かれない。

インドをカースト制度と家族の絆に縛られた究極の格差社会と断定するのはもはや旧来の偏見にすぎないのかもしれない。だが、内側にあってその実情を丹念に描写する文章を読むと、所詮フィクションと侮れないリアリティーの充満に圧倒される。インド・中国いずれかが近未来にアジアの覇者となるのか否か、映画や小説から想像できることは多い。台頭する世界のパワーを見誤らず読み解くことが、日本語の読者にも必須と確信させられた。

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翻訳読書ノート46

音楽の響く小説

上質の物語を読む時、読者は内的な旅をし、別の人生を生きている。読んでいる最中は書かれている言語の種類も意識しない。だが翻訳書にはかすかなフィルターが掛かっている気のすることが多い。こんな日本語をしゃべる人がいるだろうかと時折訝しむことはあるにせよ、それを忘れさせる文章であるなら多少の違和感はむしろ作品の個性として受容できる。『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ著 土屋政雄訳 早川書房 2006)はそんな本の一冊だと思う。

クローン人間製造システムがあったとして、生まれた子供たちが成長して「(臓器)提供者」、あるいはその「介護人」となって使命を果たすまでをこの物語は描いている。散りばめられた暗示から次第にその設定は明らかになっていく。ごくありふれたイギリスの片田舎の若者たちに鬱屈はあっても、自分たちの特殊性を自覚する彼らには運命を変えようとか逃げ出そうとい意志は働かない。語り手のキャシーと、親友でありライバルでもあるルースと、この二人と関わりを持つトミーの心の機微を中心に、外的にはあまり起伏のない彼らの日常が綿々とつづられる。

若者たちは世間一般の人々と混じり合って生きる機会がないことを嘆きはしないが、「ポシブル」と呼ぶ自分たちの生命の元であったかもしれない人との出会いを密かに期待するところはある。予め定められた人生の中で彼らは健気に愛し合い、憎み合い、許し合う。人ならぬヒトからも自身の存在の意味を問う「心」を省けるはずはないと、彼らは静かに語り続けているようだ。運命執行猶予への仄かな希望が失われたとき、小説は終わる。

クローン人間の成長という着想は荒唐無稽なのか、それとも現実味を帯びているのか?人権思想を生み、ダーウィンを生み、かつクローン羊のドリーを生んだ国で書かれるべくして書かれたと思えば、日系英国人が作者であることに拘るのは的外れだろう。それが日本語に訳されて日本の読者に供される。これは間違いなく国境を越えた我らの時代の作品だ。

実はイシグロの最新短編集『夜想曲集 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語』(土屋政雄訳 早川書房 2009)の洒脱さに唆されて「もう一曲」と手にしたのがこの本だった。「わたしを離さないで」というのも曲名である。カセットテープでその曲を流して、命を授かる奇跡を夢想しながら一人で踊り、一度は失ったテープをトミーとともに再発見するキャシーの物語は、作中に描かれる湿地に打ち上げられた廃船や有刺鉄線に引っかかって風になびく漂流物と同様、うら寂しくもまた美しい。手の届きそうな戦慄すべき未来と、取り返しのつかない懐かしい過去は、音楽が与える夢と幻で緩やかに繋がっている。

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翻訳読書ノート45

「ドキュメンタリーの魂」

今年も9.11が過ぎた。あの無差別テロはどのような経緯で起こったのか、複合的視点からの丹念な取材を元に書かれたのが『倒壊する巨塔 アルカイダと9.11への道 上・下』(ローレンス・ライト著 平賀秀明訳 白水社 2009)である。事件は何も青天の霹靂ではなかった。十分に予想されながら、阻止出来なかったことが明かされる。

片やウサマ・ビンラディンを首領とするアルカイダやアイマン・ザワヒリに率いられたジハード団などアフガン・アラブズ、片やジョン・オニールに象徴されるアメリカ合衆国のFBI捜査官やCIAの局員達。両陣営が9.11に収斂していく様は、息をのむ緊張感に満ちている。サウジアラビアに発し、エジプト、スーダンを巻き込み、イラク・クウェート・イランを跨ぎ、パキスタンからアフガニスタンに至る地域に暗躍するイスラムのテロリスト達が、遙か彼方のアメリカ合衆国を宿敵と定めたのは何故か。サウジアラビアの大財閥の御曹司がカラシニコフを抱えてアフガニスタンの山奥深くに隠棲し、ハイテク武器で重装備したアメリカにテロ攻撃を仕掛け続けるとは荒唐無稽な狂気の沙汰に見える。にもかかわらず、自爆攻撃の想像を絶する破壊力をテロリスト達は現代社会に誇示してきた。仕掛ける側、それを阻もうとする側、いずれの陣営にも隠微に見え隠れする内なる敵がいる。世界を震撼させる事件の裏側で相争う人間達の姿を詳述しながら、本書が淡々と描き出すのは、血を流すのは生身の人間であり、兵士や聖戦士を自称する輩より「無辜の民間人」の方が多いという紛れもない事実である。殉教と陶酔して自爆テロを行う者達も、復讐心に燃えミサイルをピンポイントで撃ち込む大国も、殺傷の過酷さに於いて差はない。「アフガンは帝国の墓場」とアメリカを挑発し続けるビンラディンは、老いても病んでも尚、荒野の洞窟にいる(らしい)。その不気味さが惻々と伝わってくる。

膨大な資料と318人に及ぶ関係者とのインタビューを元に書かれた本書は、アラブ諸国とアフガニスタンの人士・歴史・情勢を丹念に紹介・分析しつつ、攻撃目標となったアメリカ側の内情にも容赦なく切り込んでいく。そしてウサマ・ビンラディンの生いたちや私生活が時にはユーモアさえ感じさせる筆致で描かれると、とりわけ本当はお洒落も贅沢もしたかったであろう第一夫人が憤然と自ら離縁して行く様や、ニンテンドーのゲームで遊ぶ息子の様子など、「普通の人びと」の素顔が見えてくる。FBIを退職して世界貿易センタービル保安主任職に就任したとたん9.11を迎え、倒壊する巨塔の下に消えたジョン・オニールの、正義漢と言うよりやんちゃ坊主ぶりには苦笑させられる。間違いを犯すべく生まれた人間達がこの地上に建てた塔はいずれ自ら引き倒すしかないのかと思いながら、行間に希望を探すのもまた人間なのであろう。ピューリツァー賞受賞から2年を経て訳出された本書の著者は、優れた映画の脚本家でもあるという。なるほど、手に汗を握るはずである。

 

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翻訳読書ノート44

「詩人たちからの贈り物」

遠い昔、学生時代に講演を聞いた。東大から講師が来るというので、緊張して座っていたら温厚な紳士が登壇してこう言った。「英文学の主要な源泉は三つあります。聖書とシェイクスピアと、マザー・グースです。日本の学者はたいそう熱心にシェイクスピアを論じるけれども、マザー・グースを詳しく研究する人は、あまりいません。しかし、英語圏の人々が幼い頃から口伝えに聞き覚えて生活の端々に登場するナーサリー・ライムを知らずして、英語を真に理解することは出来ません。」私は密かに「源泉の二つは無理そうだけれど、マザー・グースなら、手が届くかも」と思ったものだ。平野敬一先生の謦咳に接した唯一の機会だった。

平野氏によって開かれた扉は、その後日本に幾度かの「マザー・グース」ブームを招来した。1000編にものぼろうかという伝承童謡の全てが日本に紹介されたわけではないが、嚆矢を放った北原白秋の足跡を継ぐ詩人たちによって、児童書のコーナーに翻訳詞華集が常時並ぶようになった。とりわけ谷川俊太郎の訳業は群を抜いている。大学を卒業してどうやら少し稼げるようになった頃、私は全集『マザー・グースの歌 第1集〜第6集』(谷川俊太郎 訳 イラストレイション 堀内誠一 草思社 1975)を揃えた。薄い絵本の一冊一冊に愛着がある。それをコアにして内外の「マザー・グース本」を集めるようにもなった。「童謡」とはいえ、「マザー・グース」はメロディのついた歌ばかりではない。ライムであるから、韻を踏み、意味以上に音を楽しむことば遊びと言った方が当たっているものも多い。音がことばを呼び、常識を覆すナンセンスの領域に詩は突入する。子どもは笑ったり怖がったり神妙になったりして、絵を食い入るように眺める。いや、子どもばかりではない。

源泉どころか、支流からも遙かに離れた荒野をさまよう私であるが、確かに「マザー・グース」とは色々なところで出会う。ジョイスの作品を読んでいて、思わずニヤリとしたこと数知れず、日常の表現でも「誰が殺した?」とくればコマドリの詩が思い浮かぶ。谷川との共同作業から出発して独自の訳を出した和田誠の作品集『オフ・オフ・マザー・グース』(筑摩書房1989)、『またまた・マザーグース』(同 1995)は流石に作詞家の作品集らしく音とリズムに拘り続け、どうしても日本語で脚韻を踏もうという意欲作ばかりで思わず笑いが漏れる。自作のイラストではなく18, 19世紀英米の木版画を加工したという挿絵が、谷川・堀内組とはまた違った味を出している。こうなると、大人の楽しみである。

日本でも公立の小学校で英語を教えることになった。だがくれぐれも「マザー・グース」は教訓的な子ども向けの詩ではないことを銘記したい。いっそ日本の詩人たちからの贈り物の訳詞でうんと遊ばせてから、「英語ではね」という順序も有りではないかと私は思う。

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翻訳読書ノート43

「人から人へ受け渡されるもの」

24/03/2009

逝く人があれば、見送る人もいる。『親の家を片づけながら』(リディア・フレム著 友重山桃訳 ヴィレッジブックス 2007)と『親の家を片づけながら 二人が遺したラブレター』(同 2008)は、フロイト研究を専門にする精神分析学者として、また一人娘としての著者が向き合った、両親との死別に纏わる心の軌跡を刻む書である。

両親が遺した一軒の家と、その中に詰まっていた夥しい「もの」の数々。それらを始末するのが如何に容易ならざる仕事であるか、第一の書は明かす。フレムの両親は二人ともホロコーストからの生還者であった。生前二人は被害者としての経験を、余りにも過酷でどのようなことばも十分に語ることが出来ないと沈黙を保っていた。そのため娘は殆ど親の真の姿を知ることが許されていなかった。両親は死んで初めて遺品を通して娘の前に緊張を解く。ものと静かに対峙するフレムが記すのは、個人史と世界史を重ねる記録である。

ロシア系ユダヤ人の父はヴェルツブルグ強制収容所に囚われていた経験を持つ。フランスでレジスタンスの闘士だった母はアウシュビッツに送られた。ベッドサイドから出てきた父の囚人カードや母の勲章、両親が探し求めた肉親や親類縁者の最期を示す記録の数々。それら「忘れてはいけない」と重く過去を語る品々と、逆に母の手縫いの美しく洒落た衣装に極まる豊かな遺品。対比は見事で、フランスの個人宅の抽斗など覗けるはずのない者にまで惜しげもなく披露される品々は、残虐と優美を併せ持つ複雑な文化を雄弁に語る。

日常の会話はあっても親子に真の対話はなかったと振り返るフレムが、父母をついに手繰り寄せるのは、二人の往復書簡を通じてだった。アウシュビッツと直後の「死の行進」で重症の結核にかかり、スイスのサナトリウムにいたジャクリーヌとベルギーで暮らすボリスが交わした750通から、フレムは二人の抱えていたトラウマの正体と愛や希望を読み解いていく。手紙のことばを軸に二人の置かれた状況を再構築しながら、自分が生まれてきた源泉をたどり、育った背景の謎に迫る筆致は、手紙の書き手に対する敬意とことばへの信頼に満ちている。

ものとことば双方を「記憶」の手がかりとして書き留める仕事は、個人の財産を人間の共有財産へと転換させる行為と言えようか。ヨーロッパの人々の記憶がこうして記録されるように、例えば今なおパレスチナで続く戦の記録もやがて誰かが残すのかも知れない。時を超え、距離を超えてわれわれは書物の中に人々の生きた証を見出す。受け渡されたものをどのように扱えばよいのか、フレムと共に読者も問われる。翻訳を介して人類の記録が果てもなくこの国に届けられるのであれば、異国のことと目をふさぐわけにはいかない。 

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翻訳読書ノート42

「生命水はどこに?」

26/01/2009

『パリデギ 脱北少女の物語』(黄ソギョン著 青柳優子訳 岩波書店 2008)を読み終えた時、もしどこかでこの作品に通じるものを読んだことがあるとすれば、ミヒャエル・エンデの『モモ』かもしれないという思いが脳裏を横切った。少女モモが時間泥棒に奪われた人々の命の花を取り戻す冒険譚は、子供向けのファンタジーと言われるかもしれない。けれども、超常能力で時空を飛び越えるパリもまた寄る辺を根こそぎにされた人々をつなぐ巷間の巫女であり、これは極めて非西欧的な救済の寓話ではないだろうか。

「脱北」という言葉の持つ政治性はリアルである。パリは国境の豆満江を自力で渡り、北朝鮮から中国へ、そして密入国船の船底に詰め込まれて九死に一生の目に遭いながらロンドンにたどり着く。不法滞在者のままマッサージパーラーで働くうち、ムスリムのパキスタン人一家に縁づいたものの、折しも「9.11」事件勃発。アフガンに引き寄せられた弟を探しに行った夫アリもキューバのグァンタナモ収容所に捕らわれ、彼の不在中に生まれた娘は同胞の裏切りで死ぬ。北朝鮮の飢餓の描写、密航船の生き地獄、ロンドンの貧民街の活写は読者に息もつかせない。そして夢のように幻のように時折挿入される、パリの体外遊離場面では、キリスト教もヒンズー教もイスラム教も仏教も相対化され、「生命水」を求めてパリが飛び越えていく火の海、血の海、砂の海、そして西天の鉄の城を描くスピード感はシュールリアルと言うべきだろう。パリに時空を超える透視能力や死者の霊と交感できる力が与えられているとしても、そのことで彼女がこの世の苦難から解き放たれるわけではない。艱難辛苦はパリに果てしなく襲いかかる。二度目の身籠もりは光明であろうか。

パリデギ「捨てられし者」という名はパリデギ「パリ王女」の意味を含む。七番目の娘として生まれた女の子は絶望した母に一旦は捨てられるが、愛犬チルソンが連れ戻す。そんな神話的設定の元に一民族の受難のみならず、虐げられる人々の命運を一身に受け、押し寄せる災厄を生き延びていく少女は、自らが母親となっても魂の無垢を失わない。「生命水」とは毎日の米をとぐ水のことだと知り、祖母や義理の祖父の叡智を体得していく彼女には、現代的自我の葛藤や自由独立の希求はない。慎ましい食卓を囲む平安と労りあう家族や縁者との繋がりを何よりの幸いとなす心根があるばかりだ。一度だけ彼女は「恨み」「憎しみ」を自覚する。だがやがてそれは「恥ずかしさ」「後悔」へと変わる。

パリデギの物語は21世紀の世界を一人の女性に託して描くグローバルな作品である。その要は西欧的世界観ではないところにあり、声なき人々の声を響かせるところにある。「私自身は世界のどこにも故郷をもたないが、ただ母国語で文章を書く作家だという点だけは忘れまいと思う」と述べる黄ソギョンに、この翻訳が応える日本語の幸いを思う。

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翻訳読書ノート41

「猫談義、米国流」

14/11/2008

アメリカ発の金融大恐慌に日々深刻さを増す新聞の見出しや、大観衆の声援に応えるバラク・オバマ氏の演説にYouTubeで繰り替えし接した後、一冊の本にもう一つ別の米国の素顔を見た。それは『図書館ねこ デューイ 町を幸せにしたトラねこの物語』(ヴィッキー・マイロン著 羽田詩津子訳 早川書房 2008)である。「大きなアメリカ」に対する、「小さなアメリカ」とでも言おうか。この本には、アイオワ州のスペンサーという町の公立図書館を舞台に、一匹の捨て猫がいかにして「図書館勤務」を果たしつつ、人々の胸を温め、とりわけ長らくこの図書館長を務めたヴィッキーの人生をどれだけ豊かなものにしたか、その18年に及ぶ「キャリア」が語られている。

書棚の片隅でこちらを見つめている茶色い猫の瞳に出会ったら、思わず手が伸びる。一読、(ある意味ではミスマッチの)図書館と猫の組み合わせが、地域に侮りがたい「アニマルセラピー」効果をもたらしたことが分かる。デューイはスペンサーを有名にした。生前はNHKの海外ロケ隊を含め数多くのマスコミ取材を受け、全米のみならず世界でも有名な猫であったという。だが、その魅力の背景にある人と町の物語を知ったなら、猫を通じてアメリカの大平原にある小さなコミュニティーの生いたちや苦悩、生き延びるための闘い、そして様々な出会いの場としての図書館の意味というものへの理解が深まるに違いない。ただ「かわいい猫の話」とは、とても言えない。

シングルマザーで数々の疾患を抱える闘病者でもあったヴィッキーは、苦学しながら図書館長を務める。彼女の英断で、書籍返却箱に投げ込まれていた子猫を図書館で飼うことにした時から、老衰に加えて癌のため安楽死に至るまでのデューイの、図書館に於ける堂々たる君臨ぶりと茶目っ気たっぷりの振る舞いを、文字で追うだけでも愉快で暖かな気持ちになる。同時に不屈の精神を備えた女性ヴッキーの孤軍奮闘ぶりに、デューイがユーモアとウィットをたっぷり添えているのが嬉しい。誰の人生にも悲しいことや辛いことがたくさんある。人の愛情は移ろいやすい。様々な誘惑や野心の故に、人はいくらでも変節する。ところが、賢い動物は信頼を寄せた人間に対して忠誠を貫く。惜しむらくは彼らの命は短い。数々のエピソードを残しながら、デューイがした最大の貢献は人間に幸福な気持ちを感じさせることだった。世界には数奇な動物譚がいくらもあろう。デューイは小さな町の図書館の体現するアメリカ社会をリアルに世界へ伝えてくれる。ウォール街やシカゴのような都会だけがアメリカではない。小さな町にこそアメリカの実態が凝縮されている。

ローカルな話の本だ。けれども「猫効果」はユニバーサルだろう。天下国家を論じる一方、一匹の猫を介して触れるアメリカに覚える親近感は、WARよりLOVEと人を頷かせる。

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翻訳読書ノート40

「ロシアの奔流」

17/09/2008

ロシア文学の新訳が目につくのは、日本人読者のロシア文学好きを示しているのだろうか、それともロシア文学の懐の深さを証明するものだろうか。本屋の書棚の前で私は迷っていた。と、その時目に飛び込んできたのは『・・・ユモレスカ』の文字。チェーホフだった。その題に惹かれて手に入れた三巻本。長短合わせて114の掌編を休む間もなく読み通した。さて、何が分かったか。明治時代以来綿々と続く、ロシア文学愛好家の長い列最後尾に自分はどうやら立っているらしいこと。

『チェーホフ・ユモレスカ』『同II』『同III』(アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ著 松下裕訳 新潮社 2006, 2007, 2008)は1880年代後半に、医師兼作家チェーホフが各種雑誌に掲載した短編作品の集積である。本邦初訳を多数含んでいる。今この時代に、敢えてチェーホフ。既に没後100年を過ぎた作家である。それでも演劇作品の上演は相次ぎ、こうして短編も現代人に届く。その魅力は何か。ロシア民衆の人情の機微、なんというものではない。それも確かに含まれているかもしれないが、さらに勝るのは民衆の愚昧さと性懲りもなくその本性を描き続ける作家の冷静沈着な目、そして作品に横溢する諧謔精神であろう。テレビのお笑い番組に付き合うのはかなり辛いが、チェーホフには連日ふっと笑わせられた。爆笑にはほど遠いし、哄笑とも違う。苦笑か、微笑か、失笑か、いや名付けようもないそれは一瞬の「緩み」という方が近いかもしれない。作中に出てくるどの男も女も年寄りも中年も若者も、身勝手で他愛なく哀れなものだ。不運と要領の悪さに僅かばかり持っているものを、それがなけなしのカネであろうと若さであろうと将来の希望であろうと、ことごとく目の前からかすめ取られてしまう情けなさ。その原因の多くがヴォトカであり、ちょっとした欲望であり、何より己の虚栄心であるところが救われない。だが、語り手の巧みな描写に乗せられて、これでもかと繰り広げられる人間喜劇にページをめくる手は止まらない。そして背景を成す厳寒の風土、雪解けの季節の麗しさ、都市の汚穢等々、精緻な観察が時空を超えた人の世の普遍性を静かに物語るのである。

帝政ロシア末期の零落した貴族、下級官吏、農奴上がり、役者達、召使い、職人、宿無し、奥方、亭主、求婚者、旅人…、彼らの人生の刻一刻が見いだされ、ごく簡潔に書きとどめられる。大まじめに犯される失敗の数々。そこには現代の利便性のかけらもないけれど、不如意だけは共通にある。どのようにしてこのチェーホフの描く世界を日本語にすることが可能になったか、後書きに記された翻訳者松下裕氏のロシア語習得の過程も興味深い。驚愕や失意、そして諦念。無知と偏見、知ったかぶりや追従、疑心暗鬼。それらはほんのささやかな幸福を飲み込んで渦巻く。短編が集まって奔流となる様は圧巻である。将来のロシアを知る手がかりもこの中に確実にあると思った。100年で人間はそう変わらない。

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翻訳読書ノート39

「バイリンガルであるということ」

18/07/2008

我が国では、バイリンガルであることは特殊な能力と見なされる。通訳は花形職業の一つでもある。けれども、小説『通訳/インタープリター』(スキ・キム著 国重純二訳 集英社 2007)を読むと、人がバイリンガルとなる経緯や、二つの言語を仲介する人間の精神的葛藤、そして多民族国家で生きるとはどのような経験なのかを、深く幾重にも知らされる。知的な都市小説としても読めるこの作品は、アメリカの一角に確かな杭を打ち込んだ。

これは韓国から渡米した移民一家の物語である。両親は英語を身につけることもなくニューヨークの下町を転々としながら商売に明け暮れた。6歳と5歳で韓国を出た姉妹には祖国の記憶がほとんどない。妹のスージーは、容姿端麗頭脳明晰な姉のグレイスが発する拒絶的態度に疑問を抱きながら成長する。親子ほども年の違うアメリカ人東アジア文化研究家との駆け落ちでスージーは勘当され、やがて両親は何者かに射殺される。法廷通訳となったスージーは事件の五年後に両親の不審な死亡原因を探り始める。小説は全編スージーによる謎解きの体裁で進行するが、やがて明らかになるのは彼女の知らなかった同胞社会の暗部であり、同胞を裏切ってもアメリカ社会を這い上ろうとした両親の蹉跌であり、母国語と英語の両方ができるが故に両親とINS(米国移民帰化局)の間に立って双方の要請を一身に受けたグレイスの苦悩だった。スージーにとって重要な人物たちは、その愛人であれ、姉であれ両親であれ、ほとんど実際には登場しない。記憶、電話の声、届けられるアイリスの花束、散骨した岬の灯台など、象徴的なものばかり。三十歳になるスージーはアメリカの夢を信奉するどころか、パスポートさえ持たない自分の居場所に幻滅している。彼女にとって二カ国語を自在に操ることは宿命でこそあれ、成功への階段を約束するものでは全くない。ナボコフすら皮肉を込めて語られる。スージーを支えるごくわずかな友人たちにも、アメリカの夢の具現者はいない。ましてやことばができるからといって、アメリカ社会に同化できるわけがないと「移民の優等生」といわれる韓国系アメリカ人スージーが思い定めている様には、虚無と強靱さが同居する。豊かならざるアメリカ、スラムのニューヨーク、韓国人コミュニティー、アジア的アイデンティティー。幸運も幸福も何処にも見えない。スージーの夢想の一瞬の他には。
 
だがこの小説に希望はないのだろうか。姉妹は決別したかに見えて、底知れぬ孤独に耐え抜いたもの同士、魂の奥深くで呼び合う半身と互いを認め合っていたことが分かる。グレイスの死は遂に確定されずに小説は終わる。二人の人間がアメリカ人になる長い道程。国とは、民族とは、家族とは何か、異質であることが常態の移民の中から生まれたこの作品には、通訳という立場で初めて知り得る越境の実体が丹念に描かれている。バイリンガルであることは己の内側で境界線を意識しつつ解体する、生存を賭けた闘いと私は諒解した。

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翻訳読書ノート 38

「甘くて苦い闇の奥」

25/05/2008

東京銀座に、我が国有数の製菓会社Mが運営する『100% Chocolate Cafe』がある。そこで配布された美しく愛らしいパンフレットにはオリジナルレシピによる56種類のチョコレートが名を連ね、原料であるカカオ豆の産地を示す世界地図が付いている。もっとも大きな生産地は中南米のように見えるが、アフリカに数カ国、東南アジアにもいくつかの拠点がある。この地図が意味するところを知らずに食べていればチョコレートは(食べ過ぎで太るなどという悩みは論外として)幸せを運ぶ美味以外の何者でもない。

『チョコレートの真実』(キャロル・オフ著 北村陽子訳 英治出版 2007)の原題は邦題より叙述的である。曰く、『苦いチョコレート、世界一魅力的なお菓子の暗黒面を探る』という。最初、私は本書を発展途上諸国における児童労働を暴く告発の書ではないかと思って手に取った。確かにその側面は多く含まれており、マリからコートジボアールに売り飛ばされ、奴隷と同じ境遇にあえぐ年端もいかぬ子供たちのことが語られている。だが、読み進むにつれて問題の核心は現代における奴隷労働(しかも年少者の)を生み出す巨大な経済機構そのものにあることが明らかになってくる。ここに記されたチョコレートをめぐる複雑怪奇な背景には息をのむ。南米に栄えたマヤ・アステカ文明の中で賞味されていたカカオは、コロンブス以来西欧に持ち込まれて変化を遂げ、欧米諸国の近代産業に組み込まれ、今や原料調達から製品加工まで行うグローバル産業の手中にある。チョコレートの長い歴史とそれに絡み合う政治・経済の仕組みは、「児童労働」という一点を衝いただけではどうにもならない根深く巨大なものだと知らされる。著名なチョコレート会社の栄枯盛衰も興味深いが、アフリカの西海岸に展開される独裁政権が地場産業としてカカオ豆栽培を保護し発展させるどころか、貧農から取り立てた税金や利益を着服し軍事費に充て、カカオ豆の相場は彼らにも手の届かない世界市場に牛耳られているという実態は凄まじい。闇の奥をのぞこうとした先達ジャーナリストは消された。幾度も繰り返される「カカオの実を収穫する手と、チョコレートに伸ばす手の間の溝」というフレーズがこの商品の象徴的な現実を物語る。

本書では世に言う「フェアトレード」ですら、先進国の消費者の罪悪感をいささか緩和するための仕組みと示唆され、グリーンを標榜する企業の頓挫や伸張が厳しく観察されている。無力な人々を搾取する悪は至る所に存在する。腐敗政権も利潤追求一方の巨大企業も指弾されるべきではあろう。だが、終盤に近づくにつれ読み手をもっとも慄然とさせるのは、倫理観も公正さに対する自覚も持たない消費者こそがチョコレートのアンフェアなあり方を許しているのではないかという問いかけである。 チョコレートから富の偏在と不平等そのものの世界を味わう一冊と言えよう。後味は苦いが滋味に溢れている。訳も旨い。

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翻訳読書ノート 37

「オオカミが来た!」

07/03/2008

早春の候、日本各地にも遥か中国大陸から黄砂が飛来する。万里の長城も海峡もハイテク技術にもそれを食い止める術はない。かつて肥沃な草原だった広大なモンゴル平原が不毛の砂漠と化していく理由を十分認識している現代人がどれほどいるだろう。私は考えてみたこともなかった。だが、一冊の本が無知に安住する脳をひっくり返した。

『神なるオオカミ』上・下(姜戎((ジャン・ロン))著 唐亜明・関野喜久子訳 講談社 2007)を読むことは一つのまったく新しい経験だったと思う。文化大革命当時の1970年代を内モンゴル・オロン草原に下放され、羊飼いとなって11年簡過ごした北京の「知識青年」陳陣(チェン・ジェン)と共に、自分もまた時空を越えて草原に赴いたような臨場感を終始持ち続けることができた。草原の民が恐れ敬い続けるオオカミに魅了された陳陣は、タブーを犯して子オオカミを手に入れ、飼育するという「科学実験」を実行する。「小狼(シャオラン)」と名付けられた一匹のオオカミは、陳陣に絶対人に屈服しないオオカミの本性を余すところ無く教える。さらに統制が取れ、老練な戦術に長けたオオカミの群れによる家畜襲撃の凄まじい死闘、補食関係にある草原の動植物の繊細微妙な連鎖、オオカミトーテムを崇敬し幾千年に及ぶ伝統を死守してきた遊牧民族の叡智、草原に侵攻する農耕漢民族と草原の生命との軋轢等々、列挙しきれないほどいくつもの局面から陳陣の体験が綴られていく。陳陣と小狼の関わりを描く部分だけでもこの上なくスリリングな動物記であるが、より大きな文脈の中でオオカミがモンゴル帝国の興亡とどのように関わり、中国歴代の王朝に如何なる影響を与えてきたか、やがて北京に戻って学究の道を歩む陳陣の歴史観が披瀝される部分のバックボーンとして、小狼が伝えることには限りがない。

この自伝的、地誌学的、民俗学的、歴史学的、環境学的(まだいくらでも並べられる)小説は、個人の体験を元にしながら33年の歳月をかけて創造された他に例のない大きな作品である。「狼性」と「羊性」の対比のみで民族性を断じることができるか、中国の王朝や諸国の群雄割拠をそう一刀両断に論じられるか、反論はいくらでも噴出するだろう。現に中国でこの書籍は国家のアイデンティティーをめぐる論争の火種であるという。だが、それでも『神なるオオカミ』は大自然を語り、人を含めた生命を観察し、変化する地球について思索する壮大な舞台であることに変わりはない。オオカミたちの生態は圧倒的な魅力を持って読み手に迫る。闇に響き渡るオオカミの遠吠えが本当に聞こえてくるようだ。

姜戎は絶滅種の再生を説くのではない。自由と不屈の魂の象徴として、ヒトの内なるオオカミの復権を示唆するのみである。人前に実像を晒さない作者は神話を書いたのかもしれない。翻訳者達はその姜戎と直接交流しながら日本語版を完成させた。読者は幸福だ。

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翻訳読書ノート 36

「記録された市場の全貌」

08/12/2007

『築地』(テオドル・ベスター著 和波雅子/ 福岡伸一 訳 木楽社 2007)は原題を"TSUKIJI: The Fish Market at the Center of the World"という。このハーバード大学の文化人類学者にとって築地の魚市場こそ「世界の中心」であったことが、全巻を通じてひしひしと伝わってくる。彼は読者を東京都中央卸売市場築地市場水産部の奥の奥まで連れ込む。本書には築地という街のあらまし、市場の成立過程、場内の商取引慣例の仕組み、日本の水産業の構造と現況、市場に関わる人々の生活と意見、日本の食文化における水産物の意味、築地市場を巡る労働環境、魚市場に関わる言語と表象、今後の市場移転計画概要等々、築地を舞台に繰り広げられる万象とも言うべき事柄が包括的に論じられている。

著者は20年にも及ぶ築地通いから江戸前の諧謔精神を会得したものと思われる。専門書でありながら、この本からは得も言われぬ面白さが立ちのぼってくる。仲卸人の職能に詳細な解説を加えるにしても、そこには人の手振り、分単位の動き方、彼らがかぶる帽子に付いているライセンスプレートの意味、職人芸としか言いようのない素早い取引の実際が手に取るように描かれて、しかも市場全体の構造と経済活動に占める位置まで委細漏らさず扱っていながら文体が軽妙なのだ。もしこれが無味乾燥な学術用語だけで書かれていたなら、きわめて限られた読者にしか届かなかっただろう。だが、思わぬところに挟まれる具体的な人間観察と人々をめぐるエピソード、それにことば遊びの愉快さがページを先へ先へとめくらせる。著者の築地市場への愛着が研究の大原動力になっていることは明白だ。文中にも時折姿を見せるベスター氏は何と幸福な学者であろうか。翻訳者たちも彼の意を汲んで、江戸前の言葉遣いを巧みに再現している。日本社会を対象として英語で書かれた本を再び日本の読者に提供するという、メビウスの輪のような反転には、異国のものを日本語に移し替えるのとは異なる要求があるはずだ。言い回しの、用語の、語法のズレは許されない。頻出する脚注・用語解説の他に文中に差し挟まれる訳注は、夥しい参考文献渉猟の跡を留める。(決して煩わしくはない。)

しかし、『築地』から読者が得るものは重い。市場施設の老朽化は否定しようもなく、(おそらく豊洲への)移転は実行されるだろう。既に当地での市場の終焉を視界に入れたこの膨大かつ詳細な築地の記録は、特定の分野に限らない人々の依拠すべき文献として長く読み継がれるものと思う。本書に消えて行くものへの哀惜ではなく、(変形は免れなくとも)継承されていくはずのシステムとカスタムへの信頼を読み取るなら、実行するのはあなた方自身をおいて他にないと読者は後を任されたようなもの。鮨をつまむ手が、ふと止まりそうだ。

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翻訳読書ノート 35

「グローバルに考える平和と歴史」

21/09/2007

あらゆる局面で「グローバル化」が叫ばれる今日、その対極では国益や地域エゴ、民族間の対立が益々激化している。悲しいかな、わが宰相は複雑な世界と渡り合う術もなく東アジアの一国を束ねる任にも堪えきれず、その座を降りてしまった。『ピースメイカーズ −1919年パリ講和会議の群像−(上)(下)』(マーガレット・マクミラン著 稲村美貴子訳 芙蓉書房出版 2007年)は平和を招来する舵取りの困難さを、大画布の中に大胆に描ききって卓抜である。政治は熾烈な戦い以外の何者でもあるまい。その職を志すには、余程の肝の太さと精緻な策略を労する能力がなければならない。特にリーダーに要求されるのは老獪さも含めて、タフネスが第一なのではないかと本書を読みながら思った。

『ピースメイカーズ』には、第一次世界大戦を終結させ新たな国境の線引きをした欧米の三巨頭(仏のクレマンソー、英のロイド・ジョージ、米のウィルソン)を中心に、大戦に連座した各国の大立て者たちが入れ替わり立ち替わり登場し、それぞれの権益を最大限に主張し獲得しようとしのぎを削る様子が縦横無尽に描かれている。この作品を読み解くためには精度の高い世界地図帳が是非とも必要だと思う。戦場となったヨーロッパ各地の要所、バルト海、地中海、アドリア海、黒海、カスピ海沿岸、バルカン半島、トルコから中東各地、更に中国の山東半島と、章を経るごとにせわしく頻繁な地名の確認が要求される。どこで誰が何を求めているのかを辿るうち、歴史に名高いパリ講和会議とは西欧を中心とする世界秩序の、崩壊の始まりであったかと息をのみながら見る大スペクタクルドラマへと展開する。「国際連盟」の理想、「民族自決」の思想、国際会議での各国虚々実々の駆け引きが、実在した登場人物の個人的恣意とも絡み合い、ベルサイユ条約調印へと雪崩れ込んでいく様は、あたかも幾百万の屍とは無縁のパワーゲームのようにも見える。

会議に臨んだ日本代表の影が薄いこと、中国に比べても巧みな自己主張の技では見劣りがすること、主に「沈黙」の故に異彩を放っていることなどが露わである。むろん世界に太刀打ちする姿勢を「強行」であれとは言いたくない。ただ存在の意義を充分に示し他者の共感を得る雅量と力量が欲しいと思わずにいられない。1919年からわれわれはいかほど変化しただろうか。

マクミランは「ベルサイユ条約」をその後のさらなる災厄の原因とは考えていない。一刀両断にして済むほど世界は単純なものではないから。この長大で詳細なルポルタージュによって読者は和平交渉の現場に立ち会い、歴史の分岐点を目撃する好機を得る。神ならぬ身の政治家たちの仕事は公平無私とはほど遠い。権力を持つ者が利権へ走り、他に先んじようと必死の形相を示す。ここにはそのような実態も含めて、国際政治の場がどのように培われてきたのか、実に人間くさい政治家たちの行動や思惑が子細に調べ上げられ描き出されている。戦争を憂い、平和を希求するとき、まさに「グローバルな視点」を持って主体的に考えようとするなら、本書は優れた指南役となるはずだ。細部にわたるまで神経の行き届いた丁寧な訳業もそれを可能にしている。

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翻訳読書ノート 34

「メディカル・サイエンスの揺籃期」

7/7/2007

『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』(ウェンディー・ムーア著 矢野真千子訳 河出書房新社 2007年)は18世紀ロンドンの外科医にして解剖学者、ジョン・ハンターの奇想天外な人生と彼の生きた時代を余すところなく描き、実に驚嘆すべき人物としてハンターを現代に蘇らせた。消毒の概念も麻酔法もないところで外科手術を行う西洋近代医学揺籃期の実態、保守的で旧弊なイギリス医学界の体質、聖書の創世記神話を越えて生命科学が萌芽しつつある様子が手に取るように分かる。ニュートンとダーウィンの間の時代をハンターは生きた。

イギリスが海外に勢力を広げた時代に、ロンドンには世界中からヒトとモノが集まってきた。ハンターが鯨、カンガルー、キリンといった凡そブリテン島には縁もゆかりもない動物の標本を作ることができたのも国力の隆盛と大いに連動している。倦むことのない情熱でヒトの身体を解剖し、それを後進に公開し、医学教育のあるべき姿を主張し続けたハンターに頑迷な伝統主義者たちが立ちはだかる様は、いつの世も変わらない改革者の宿命を示しているが、ハンターの偏屈ぶりもこれまた常道を逸している。天才的なメスさばきの一方で人心の機微には疎く、人情家でありながら怜悧な蒐集家でもあり、狙った獲物は何としても手に入れる貪欲さが崇拝者とともに敵もたくさん作った。これまでハンターが華々しく歴史の表舞台に出てくることがなかったのは、作為的に彼の業績が貶められていたからでもある。無名の患者たち、各地から集まる彼の私設解剖学教室の学生たち、それぞれに病苦も抱えた高名な当時の学者・文化人たち、そして郊外の屋敷に増え続ける動物たち、遂にハンテリアン博物館となった彼の膨大な収集品の数々。煮えくりかえるようなロンドンの喧噪を背景に、「科学的外科の創始者」ジョン・ハンターはいまわの際まで反骨を貫く。

「観察し、推論し、記録せよ」と主張するハンター流の外科教育はあの時代にどれほど革命的であったか、そして解剖を通して実践される生体内部の探索が、マクロの世界への旅に勝るとも劣らない大冒険であったこと(あり続けること)を本書は証言する。それにしても、「ジギル博士とハイド氏」のモデルとも「ドリトル先生」のモデルともいわれるジョン・ハンター像の、何と生彩に満ちあふれていることか。進化し続ける現代の医療技術、先端医学の大元にこんな破天荒な大先達がいたことを今日の医学生たちは知っているだろうか。科学的精神と宗教・倫理・社会通念のせめぎあう様も含めて、むしろこれは未来に差し出される一冊と読んだ。

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翻訳読書ノート 33

「人類であることの孤独」

26/4/2007

20世紀中葉から今日まで、旺盛な創作で世界中の読者を圧倒し尽くしている作家、ガブリエル・ガルシア=マルケスを、私は久しく遠くから眺めるばかりだった。幾多の賛辞を読んでも手に取る勇気が出なかったのは、書かれたもの全てに於ける「横溢」「過剰」「誇大」が喧伝されてきたため、読む前から萎縮していたところがある。だが「全小説集」の深紅の帯を見て、最早拒む理由はないと思った。果たして、『百年の孤独』(G・ガルシア=マルケス著 鼓直訳 新潮社刊 2006年 / 原作出版は1967年、鼓訳は1999年の改訂版)に驚嘆しながら、遅れてきた読者はこの後続く筈の愉悦にほくそ笑んでいる。

ホセ・アルカディオ、ウルスラに始まるブレンディア家の系図を幾度参照したことだろう。兄弟はしばしば同じ女性と関わり、生まれてくる赤ん坊たち、引き取られる子どもたちは幾度も同じ名前を受け継いでゆくので、時として今読んでいるのは誰のことか判然としなくなる。早世する者もいれば百年を超えて生き続ける者もいる。生者のみならず死者も亡霊の形をとって物語に参入してくる。この異形の年代記に厳然とそびえ立つ幾人かの猛者や「家」に君臨する女たちがいることは確かだが、誰一人主役を演じるわけではない。しかしブレンディア一族の栄枯盛衰は神話のように底知れぬものを持つ。近親相姦の果てに「豚のしっぽ」を持つ子どもが誕生することは、予め系図に明示されているから予想出来るにしても、そこに到るダイナミズムを実感するには記された言葉を丹念に辿るしかない。

繰り返される「孤独」という言葉ほど、一見マコンドの街にもブレンディア一族の家屋敷にも不釣り合いなものはないように思える。絶えず人々が出入りし、ざわめき立つ場所である。しかしよくよく見れば多くの登場人物が救いのない己を抱え、他者との交渉を断って引き籠もり鬱々と歳月を重ねる。およそ現代の都市とも文明とも無縁なこの舞台に巣くうのが「孤独」とは。それは個人の感傷とか自意識を吹き飛ばし、命ある限り人を苛み尽くす宿命として描かれる。そして南米の多雨と旱魃をものともせず、たかだか百年の人の命を遙かに凌駕し、不尽の生命力を示す植物と昆虫の群れが背景からじわじわと前景に出てくる。ガルシア=マルケスの力業に脆弱な読み手が竦むのは、必定であったかも知れない。

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翻訳読書ノート 32

「イランを語る声」  

8/3/2006

その取り合わせによって、異質なものの衝突を予感させる題名の本『テヘランでロリータを読む』(アーザル・ナフィーシー著、市川恵里訳、白水社 2006)はイランをめぐる多声的な覚え書きである。英米の近・現代小説を読み解く行為を基軸に、「自由な選択」を剥奪された知的な人々、とりわけ何重にも規制をかけられた女性たちの懊悩と葛藤がきわめて「文学的」に語られている。だが、記録されるのは辛く重々しい事ばかりではない。テヘラン大学を追放されたナフィーシー教授が開く密かな読書会に集う若い女性たちの、華やぎや恥じらいに満ちたおしゃべり、互いの嫉妬や牽制、諦観に混じる勇敢な抵抗などが、心の襞の複雑さをそのままに克明に描写される。1979年のイスラーム革命を契機に、欧米社会の趨勢とは逆さまの「反・解放」へ突き進んだ社会に於いて、文学テキストが生きる為の武器にもなり、鏡にもなり、危険物にもなるという、元々そのテキストを産みだした国々では既に失われて久しい筈の「パワー」を発揮するところを目撃するのは痛快でもある。

当然のことながら、イランを頑迷な「宗教国家」として単純に弾劾することを本書は望んでいない。国外に新天地を求めた語り手は、より強く祖国の有り様に関心を持ち自身のルーツを意識する。それは、テヘランでこそロリータやギャッツビーが、ディジー・ミラやジェーン・オースティンの主人公たちが人の想像力を突き動かすように、異郷での祖国とのあらたな対話構築を切望する声を本書は響かせている。そして個人の尊厳の剥奪を経験した女性たちの秘める、底知れぬ潜在力をナフィーシーは世界に示す。

読み手は個人を封殺する体制がイランにのみ固有のものではないことを感じずにいられない。大なり小なり、何処でも今日「不自由」が拡大しているのではないか。さらに、ナフィーシーと、読書会のメンバーの一人に『イラン人は神の国イランをどう考えているか』(レイラ・アーザム・ザンギャネー編、白須英子訳、思草社、 2007)で読者は再会できる。ここにはイランをめぐる15編の論考が寄せられているが、うち「テヘランでクンデラを読む」でナフィーシーの学生ザルバフィアンは、故意の誤訳と当局の修正によって原作とは別物に作り替えられた作品を唯々諾々と受け入れる読み手の有り様を描き出している。かつてのわが国の「墨塗り、伏せ字」が蘇る。テキストと政治の闘争は、今日も遠い世界の話ではない。

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翻訳読書ノート 31

「アフリカの魂」  

14/12/2006

数年前にフランスの友人が「私と家族はルワンダにいたことがある」と いうのを聞いた時、「あの大虐殺の国?」と尋ねかけて私は口をつぐんだ。あまりにも失敬な物言いになりそうだったので。また、後に『ホテル・ルワンダ』上映運動が起こっていることは知っていたが何もせずにいた。アフリカの地に思いを馳せるのは何と難しいことだろう。しかし、一冊の本が時空を難なく越えて事の核心に人を連れて行くことがある。『生かされて。』(イマキュレー・イリバギザ、スティーヴ・アーウィン著 堤江実訳 PHP研究所刊 2006)はそのような作品だった。

但し、これはフツ族とツチ族の対立抗争を物語る歴史書ではないし、1994年の大虐殺の純然たるルポルタージュですらない。仲良く不自由なく愛情に溢れて暮らしていたルワンダの一家族が、突如ジェノサイドの嵐に巻き込まれ情け容赦なく殺されていく渦中に、奇跡的に生き延びることのできた若い女性、イマキュレーの体験談である。彼女は三ヶ月間フツ族の牧師の家のトイレにツチ族の7人の女性たちと共に物音を立てることも身動きもならず隠れていた。フランス軍に保護されてからも幾度も危機に瀕し、やがてツチ族解放軍キャンプを経て首都キガリへ、そして国連に職を得、結婚してアメリカへという波瀾万丈の経験をくぐり抜けていく。どの場面も壮絶で過酷なものであるのは確かだが、特筆すべきはイマキュレーの「祈り」だ。外界の悲惨を越えるもの、憎悪と復讐の連鎖を断つものとして示される彼女の「祈り」は、具体的な行為であり激しい精神活動である。トイレの中で静止した状態で一日に十時間以上も祈り続け、至福の瞬間さえ得るイマキュレーの内観が描き尽くされる。私自身はカトリックの信仰と無縁の徒であるにもかかわらず、イマキュレーの「祈り」や「神」との交感を不可解なものとは感じなかった。人間の命とは魂の働きなのかと感得させられる他なかった。

『生かされて。』は原題を"Left to Tell"という。なるほど証言するためにこの世に残されたということか。ホロコーストは過去の悪夢ではなく、いつどこで再現されるかしれない。アフリカに介入したヨーロッパ 列強が元凶ではないのかと思いつつ、ルワンダから発せられた一筋の光を見失うまいとも思う。残忍な殺人と寛容な魂。いずれもが人間の実相と言えよう。『生かされて。』を読みながら『ホテル・ルワンダ』のDVDを見た。ルワンダの苦界浄土。いずれも殺戮の狂気から10年の時を経てようやく語り出された記憶である。救済と希望のありかについて、ルワンダは万人に問いかける。

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翻訳読書ノート30

「悪童を産んだひと」

19/10/2006

今から十年ほど前、アゴタ・クリストフの一大ブームがあったという。不明にして私はその熱気を知らずに過ごしてしまった。来日した作家の講演会に接した人々も多いに違いない。そのような喧噪とは全く無縁に、今年の夏初めて『悪童日記』を手に取り、おそらく当時熱狂した読者たちと同じような道筋を辿って私もこの作家の作品を片端から読んだ。後発の読者にも利点があったとすればそれは、今年相次いで訳出・出版された彼女の自伝や短編集も併せて読めたことだろう。

『文盲 アゴタ・クリストフ自伝』(堀茂樹訳 白水社 2006)は6月に、そして短編集『どちらでもいい』(堀茂樹訳 早川書房 2006)は9月に出た、いずれも薄手の美しい装丁の本である。それらは見かけも中身も『悪童日記』三部作全体のボリュームや残忍なまでに読み手の意表をつくストーリーとは乖離した掌編のように見えるが、作家の創作の軌道を明かすという意味で戦慄を覚える作品群である。とりわけ『自伝』では、一人の故国喪失者が偶然に導かれ如何にしてフランス語で書く作家となったかが、これほど凝縮することは不可能なほど短い言葉で語られる。自ら選んだとはいえ故国を永遠に去ることが母語を葬ることにもなり、難民として一旦は「文盲」になって新に異境の言語を学び始めるところから出発した作家というアゴタ・クリストフの自己表明に、読者は厳粛な感慨を持って立ち会わざるを得ない。

課せられ、引き受けた言語で書かれた作品群があの類い希な戦争譚、あるいは第二次大戦後の中・東欧の運命譚だとしたら、経済的繁栄を謳歌する北半球西側陣営のいずれから産み出されたものとも異なる過激さに裏打ちされていることの意味が理解出来る。そしてあんなに面白く興奮しながら読破した『悪童日記』が何故『二人の証拠』『第三の嘘』、また『昨日』、そしてこの短編集『どちらでもいい』と進むに連れてますます引き締まり、かつ荒涼とした絶望感に満たされていくのか、小説に先立つ戯曲集『怪物』に漂う不条理の笑いさえ希薄になっていくのか、諒解できるのではないだろうか。それを私は失望とは感じない。極端に少ない言葉の喚起する状況・情景には、消費されるものとしての昨今の文学作品には望めないものが見える。過酷な生の真実、ともいうべきものが。仮にこの先もう大部の新作発表はないとしても、アゴタ・クリストフは一過性ブームの対極をなす。難民が生まれ続けているこの世界において。(『文盲』以外、アゴタ・クリストフ作品は全て早川書房刊。)

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翻訳読書ノート29

グーグル未完の物語

25/8/2006


あって当たり前というほどに生活の一部と化した、インターネット検索エンジン「グーグル」。便利さと引き替えに手放したものがあるようで少し恐ろしい。関連書籍の出版が相次ぐ中で、『Google誕生/ガレージで生まれたサーチ・モンスター』(デビッド・ヴァイス/マーク・マルシード著 田村理香訳 イースト・プレス刊 2006)は、ラリー・ペイジとサーゲイ・ブリンという「グーグルガイ」について、また急成長したグーグルという企業について詳細に物語る。現在進行形の物語の常として、ここに「めでたしめでたし」はない。いつマイクロソフトを始めとする巨大企業に行く手を阻まれるか、ヤフーのようなライバル企業に出し抜かれるか、あるいは国際政治や司法の壁、各国の特殊事情の前に屈せざるを得ないか、行く先に未知の部分はあまりに多い。

ここに描かれた目眩くアメリカの富、優れた頭脳と強運に恵まれた集団、自由な市場競争の有り様を追っていると、グーグルが忌避する「邪悪なこと」など寄りつく島もないような錯覚に陥る。グーグルはインターネット上に分散する情報に幾通りもの「秩序」を与え、整理し尽くすアイディアの具現化に情熱を燃やす。その恩恵を遍く世界が享受出来るよう才能を集めてテクノロジーを開発し続けるというのだが、ひたすら上昇する姿に一抹の危うさも感じる。たとえば、数ある機能の中から「グーグルイメージ」を選んで自分の個人サイトの名を入れて検索してみると、10年足らずの間に掲載したイメージが瞬く間に10数ページにわたってサムネイルに羅列される。驚くべきは既に削除したはずのものまで含まれていること。こんな些細な個人サイトのものまでも、(制作者の意図にはお構いなく)一度存在したネット上のあらゆる情報を保存するという方針が貫かれているらしい。グーグルは世界に名だたる図書館の蔵書をデータベース化し、いずれ遺伝子情報も提供する予定とのこと。また、中国政府の規制を受け入れて中国国内からの反政府運動に関するグーグル情報検索は不可能とする一方、外からの天安門事件の記録へのアクセスはオープンだ。扱い方一つで情報の意味は変わる。知の組み替えがもたらす未来に歪みはないのか。

IT関連企業の急速な栄枯盛衰が人々の耳目を集めるのは、主役たちの若さに一因がある。「その若さで」という世間の賞賛とやっかみがサクセスストーリーを持ち上げ、凋落の際には「それ見たことか」と思う様こき下ろす。Webの新時代におけるグーグルの意味を問い直す仕事はこれから始まると確信させる一冊である。未完の物語にこそスリルとサスペンスは漲っている。

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翻訳読書ノート28

「メソポタミアからの手紙」

26/6/2006

イラクについて最新情報を知りたいなら本など読んでいる場合ではなかろう。メディアは時々刻々、戦争について、新政府について、「テロリスト」について、また僅かながら住民の声さえもわれわれの手元に届ける。イラクは断片的なニュースの接ぎ合わせとなって眼前に現れる。いよいよ各国軍は撤退の時を探っている。しかし、この戦争はいったい何だったのかと根本的に問い直そうとするならわれわれは歴史書を繙くしかない。だがいずれの書を?

『砂漠の女王-イラク建国の母ガートルード・ベルの生涯』(ジャネット・ウォラック著 内田優香訳 ソニーマガジンズ発行 2006)を手に取ったのは偶然だった。本当はイラク人女性の書いた本を探していたのに、ヴィクトリア朝英国の富裕家の令嬢にして考古学者、登山家、諜報部員、外交官、と多彩な顔を持つ女性の伝記に遭遇してしまった。怜悧な彼女が「アラビアのロレンス」を「ぼうや」と呼び、ファイサル国王の憂鬱な胸の内さえ聞く女丈夫でありながら、ついに叶わぬ恋に身を焦がす孤独な存在であったことも余すところなく記されていて、卓越した女性の成功譚に終始していないのがこの作品の魅力であろう。彼女の折々の行動も発言も、彼女が起草した数々の公文書からだけではなく、もっぱら彼女が繁く書きつづった家族(主に父)への手紙から引用されてこの本は成り立っている。果敢に砂漠を駱駝で旅しイラクの国境を策定しながら、故国へのドレスや帽子の注文もぬかりない。同僚たちを鋭く批評する一方、賞賛にも批判にも過敏なまでに反応する。そんな心の襞をありったけ託した手紙のために、ガートルード・ベルは神秘のヴェールとは無縁の存在になった。

砂漠の民を愛するとはいえ、結局は大英帝国のために最善の道を模索し続けた彼女の働きも、帝国の凋落と同様終焉を迎える。イラクの人々、とりわけ長く声なき存在であった女性たちが将来ガートルードをどう評価するかは未知である。だが、外交官の父を範としながら国際情勢や歴史を肌で感じて育ったという気鋭の翻訳者が、イラクをよく伝える書として今日の日本に本書を紹介したことは特記しておきたい。居場所を求め、力を発揮する舞台を求めて高峰を目指したガートルードの嘆息までも、活き活きと伝わる訳文である。ちなみにガートルードの撮影した夥しい写真はニューカッスル大学のアーカイヴで堪能することが出来る。この書籍に導かれ、踏破出来る規模の大きさはめざましい。

参考「ニューカッスル大学ガートルード・ベルアーカイヴ」

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翻訳読書ノート27

「勝負の相手」

7/4/2006

小説はケーススタディではないし処方箋でもないのは分かっているけれ ど、難題解決の鮮やかな手口が書いてあるのではないかとつい期待して しまうことがある。『ケイトは負け犬じゃない』(アリソン・ピアソン 著 亀井よし子訳 ソニーマガジンズ 2004年刊)はロンドンの金融街、シティで働くファン ドマネージャーにして5歳児と1歳児の母ケイトが、激務と家庭生活をどう両立させていくのか(あるいは、いけなくなるのか)をミステリー顔負けの迫力で描く。このケース(キャリア追求と「人間的な」家庭生活の同時実現という課題)に興味のない向きには全く面白くない小説だろ う。だがもしこの種の問題に一度でも直面したことがあるなら、男女を 問わず強烈な磁力をもって数日間読者を虜にすること請け合いだ。

『ブリジッド・ジョーンズの日記』(ヘレン・フィールディング著、 亀 井よし子訳、 ソニーマガジンズ刊)の愛読者はきっとこちらにもはまることだろう。ブリジッドの物語が結婚相手をゲットするという、ジェイン・オースティン以来綿々と書き継がれてきたロマンティック・コメディ(の形を取るイギリスの伝統的風俗小説)の系譜に属するとしたら、ケイトは結婚の次に待ち受ける多種目バトルに出陣する戦士だ。一見豊かな社会における恵まれた階級の女の身勝手な言い分とも読めるが、根底にあるのは社会的性役割への体当たり的抵抗の物語である。(いや、これは「クラス」 を超越しようとする階級闘争の物語ですらある。)身に覚えのある女たちは随所でほくそ笑み、腹を抱えて笑い、時に身につまされて涙を浮かべるにちがいない。そういう女と関わったことのある男たちはおそらく最初から最後まで苦笑し続けるのであろう。

「男女雇用機会均等法」やよし。が、枠組みが実を伴うわけではない。 「ジェンダーフリー」ということばすら認めないと政府・地方自治体こ ぞって公言し始めた国(日本)の民は笑っている場合ではない。「負け犬」という言辞が原典を離れてふらふらと彷徨い乱用される社会も異様だ。原題 I Don't Know How She Does It (「彼女は一体どうやっているのか見当も付かない」)から懸け離れた本書の邦題は、そんな我が国の状況に斬り込んでくる。この勝負、本当の相手は誰なのか。答は小説の中ではなく、実戦の場にあるはずだ。

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翻訳読書ノート26

「啓蟄を待ちながら」

10/2/2006

寒さ厳しい立春に、待たれるのは啓蟄。今年はこの日に東京都文京区千 駄木でファーブル昆虫館「虫の詩人の館」がオープンするという。完訳 『ファーブル昆虫記 第一巻上・下』(ジャン=アンリ・ファーブル著、 奥本大三郎訳、集英社刊 2005)の美装ハードカバー表紙を撫でながら 私も楽しみにしている。贅沢な本だ。訳者は現地取材を重ね、専属の 挿絵画家と写真家を確保し、大きな活字で読者の便宜に応じ、悠々と 全十巻20分冊の刊行を目指す。『すばる』連載を18年続けた上での満を 持しての個人全訳(むろん世界初)である。「虫の詩人の館」が訳者の 自宅敷地に開かれると聞いては、原作者と訳者の深い因縁にまで思いを 馳せぬわけにはいかない。

鳴り物入りの刊行であるから書評も相次ぐ。中には「なぜ今『昆虫記』 なのか」と、ダーウィニズムとファーブルの対決を説き、現代の動物 行動学進展の見地からファーブルの頑迷さをあらためて指摘する書評子 もいる。それでも本書の今日的意義を認め、詳細な訳注を含めた翻訳を 称えるものが殆どである。あらゆる世代に供し、しかも「声に出して 読んで面白い」というこなれた日本語は確かに得がたいものである。 狩人蜂や幼虫、また食客たちの行動描写に「ここを先途とばかり」 「不倶戴天の敵」「鎧袖一触」などという表現が自在に繰り出されると 流石に笑いがこみ上げてくる。講談調と言ってよいかもしれない。日本 語に叙情と勢いがある。自然観察の書としては破格である。それはとり もなおさず原作の味わいなのだろう。

小学生の頃ファーブルと出会い、昆虫採集に熱中した訳者と同様の道を 辿った旧少年たちから、本書は絶大な支持を得ていると思われる。IT革 命にも市場経済の激動にも真似の出来ないホンモノの興奮がここにはあ ると。かつて虫愛ずる姫君であったためしのない私でさえ、読み終える までどこに行くにもずっしり重い本書を手放すことはできなかった。 昆虫とわれらは地球を共有していると実感させる点でも、やはり本書は きわめて今日的意義を持っている。

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翻訳読書ノート25

「数学世界への招待状」

25/11/2005

新潮クレスト・ブックスの中に『素数の音楽』(マーカス・デュ・ソー トイ著 富永 星 訳 新潮社 2005)を見つけた時、これは海外の翻訳小説 の為のシリーズだと思いこんでいたので驚いた。帯の「小川洋子さん、 絶賛」というコピーを見て、「なるほど、『博士の愛した数式』効果か」、 とある程度納得がいった。このシリーズに本書が含められた意図がよく 分かったのは読了してからだと思う。素数の謎をめぐる数学者たちの悪 戦苦闘と、栄光を求める人間模様はそれだけでも十分スリリングなドラ マだが、実はそのドラマの主役は「素数」そのものであることが明らか になるからだ。

未解決の難問「リーマン予測」について一般読者がこの本を一冊読んで 理解できることはごく僅かだろう。ただ、読みながら出会うフェルマー、 オイラー、ガウス、アーベル、ハーディー、ヒルベルト、ゲーデル等々 の名に親しみ、パリ、ゲッティンゲン、プリンストンなどの大学や研究 所の内部を覗き、ギリシア時代以来連綿と続いてヨーロッパ近代に繋がり、 アメリカで20世紀に隆盛を誇る数学(数論)の歴史を辿るうちに、数学 は決して単なる「秘儀」でないことは分かる。素数の美しさや不思議さ に触れる読者もいるにちがいない。また、ラマヌジャンというインド出 身の数学者がケンブリッジで文化衝突に苦しみ、早世する下りには憤り も感じるはずだ。やがて素数がインターネット時代の暗号技術に絶大な 威力を発揮するようになった現代社会を見せつけられれば、我々が依っ て立つ足許に素数が潜んでいることを知って、また新たな興味をかき立 てられることは間違いない。

学校で難解な計算を強いられて数学嫌いになる人は数知れない。それな のに、他の自然科学分野に比べて数学の啓蒙書は極端に少なかった。数 学者たちも語る言葉を持たなかった。だが、崇高さも愚かしさもある人 間の学問としての数学がこのように語られるなら、数学への頑なな偏見 は和らぐだろう。随所に「訳注」を施した富永星氏のリズミカルで簡潔 な訳文に、本書の魅力が支えられていることを強調したい。(実は、 25年間数学者と暮らしてきた私にも初めて分かったことがたくさんある。)

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翻訳読書ノート24

「蛙三昧」

29/9/2005

百匹では収まらない蛙(かわず)が揃った。「蛙コンペ」とも言うべき 宴に集うのは、東西の文人・識者。但し御大芭蕉はいない。何故ならこ この蛙は英語版。120ページ余りの小型ペーパーバック"One Hundred Frogs" (ed. Hiroaki Sato, illustrations by J.C. Brown, Inklings edition, Weatherhill1995)をパラパラめくると、水墨画の蛙が池の畔に とまるトンボめがけて大きくジャンプし、そのまま水中へポチャンと飛 び込む仕掛けになっているのも愉快だ。「古池や蛙飛び込む水の音」は 訳者それぞれの個性を映し出す。

ニューヨーク在住の編者の元へ約二十通りの英訳「蛙句」が送られてきて、 「訳者を当ててご覧なさい」と挑まれて以来、Sato氏の「蛙集め」が始 まったという。文献目録付きで寄せられた研究論文収録の五十編を含め、 本書第一部をなす第一版が出来たのが1981年のこと。それ以降も蒐集は 続き、Sato氏のリクエストによって書かれた新作を加えたものが第二部 をなす。翻訳年代順に並べられた第一部の筆頭を飾るのは子規であり、 Lafcadio Hearnがそれに続く。新渡戸稲造は二編、「飛び込む」は"took a sudden plunge"から"jumps in--"に変化している。実直な訳に止まら ずリマリック形式、ソネット形式や数字の7の形をした文字配置で書かれ たものなど、思いがけないひねりが加えられたものもある。第二部では 変奏は更に自由度を増し、William Matherson のように3ページに及ぶ散 文(男女の会話からなる蛙句の謎解き)といった解釈・批評をも許容する。 いや豪勢なものです、蛙君。

語に解体すれば僅か六つか七つの要素が、訳者によってこれほど多様な 詩句に変化するのは圧巻だ。「池」だけでも mere, pond, lake, pool, depth, bog(ge) . . .これに「古」がくっつくと生まれるバリエーショ ンの多さ!改行の仕方、感嘆符のあるなし、また擬音を入れるかどうか の判断など、微細な違いが興味深い。ふと思う。俳句は確かに禅の公案 のようだと。(訳者の中には鈴木大拙もいる。)頭でひねくり回しても 本懐は得られない。直覚が動くかどうか。伝えようとして伝わるものば かりではない。しかし、仏教も日本文化やその精神もことばを拒絶して はいられない。

ついで手を伸ばした"Haiku"「俳句」(選・文 高橋睦郎 写真 井上博道 アートディレクション 高岡一弥 翻訳 宮下惠美子 ピエ・ブックス 2003)を読み且つ眺めながら、このわびさびは日本人にしか分かるまい などという時代は疾うに過ぎたのを感じる。放っておけば日本人にすら 分からなくなっている。だが、俳句を好む現代の若者たちは多い。(ネ ット俳句サイトには人気があり、「俳句甲子園」は映画にもなっている。) ことばは伝承に発展にどこまでも食い下がるしかない。蛙の宴は始まっ たばかりだ。

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翻訳読書ノート23

「母性をめぐる知の饗宴」

8/7/2005

サラ・ブラファー・ハーディー著『マザー・ネイチャー』「母親」はいかにヒト を進化させたか(塩原通緒訳 早川書房 2005)(原題 Mother Nature, A History of Mothers, Infants, and Natural Selection) は、上・下二巻、本 文700ページに加えて原註と参考文献合計173ページに及ぶ大著である。 原作は1999年出版とのこと。おそらく翻訳の仕事にはさまざまな周辺作 業も含めて5年余りの歳月を要したと想像できる。動物行動学、畜産学、 人類学、認知心理学・神経科学、発達心理学、内分泌学と行動、昆虫学、 語源学、遺伝学、爬虫類学、歴史学、科学史、医学、栄養学、鳥類学、 古人類学、霊長類学、そして文学、哲学、宗教に至るまで古今東西の多 種多様なジャンルを広域的、多面的に渉猟した原文の豊穣を十全に再 現する為に、どれほどの努力が払われたことかと先ずは感嘆の念を禁じ得 ない。

動物の「母性」なるものの本質を問うと、このような壮大な議論を展開する 力業が必要なのかと覚醒させられ、かつその議論の中に込め られた果てしない生命の戦いに圧倒される。オスとメス、メス同士、親と子、 親類縁者、支配者と被支配者、周辺サポーター等々を巻き込んで、生ま れ出た個々の命は生き延びられるかどうかしのぎを削り合う。(いや、生まれ 出でるについての戦いが先にある。)膨大な事例の中で、例えば生まれ 落ちるそばから乳母の元に送られた近代ヨーロッパの金持ちの家の赤ん 坊たち、孤児院送りになって死んだ夥しい数の貧者の子どもたち、授乳せ ずにすぐ次の妊娠を招いてまたしても子どもを手放す母親たち、といった 「文明」の裏側で繰り返されていた母子受難の歴史に光が当てられる。 子捨て、子殺しは育児の望みのないところではいくらでも起こりうることの幾 多の例証。狩猟民族と現代的都市生活者に共に見られる「代理母」の存 在も指摘される。霊長類の一種としての人間の生命連鎖のあり方が、「母親」 という視点から徹底検証されている。当然と思われ、顧みられずに来た「母性」の 奥深さはどうだろう。

博覧強記の叙述に負けないのが数百枚に及ぶ図版の魅力である。但し、 中には菅笠を被り和服の胸を開いて授乳する日本の農婦という、既に 地上から姿を消したイメージがまことしやかに掲載されている不思 議もあるが、文字だけでは理解できない範囲にまで読者を誘う仕掛けが 素晴らしい。「ダーウィニアン・フェミニズム」ということばを初めて知った。 社会通念に生命科学が毅然としてもの申す。 著者自らの「母性」を基盤にする本書には、女性科学者の本領が発揮さ れている。深い癒しに満ちた子守歌で本書が幕を閉じるところに救いを感じた。

配信後、一部加筆修正。Keiko

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翻訳読書ノート22

「霧のなかへ、私も」

13/5/2005

これまで迂闊にも PTSD が Posttraumatic Stress Disorder(心的外傷 後ストレス障害)の略語とはっきり認識していなかった。トリイ・ヘイ デンというベストセラー作家の本を読んだことがなかったというのも面 目ない。最新刊の『霧のなかの子--行き場を失った子どもたちの物語』 (入江真佐子訳 早川書房 2005年)で初めて出会った。

物語といってもこれはノンフィクションであり、トラウマを抱えた人々 とのセラピーを通じた関わりの記録である。この作品には彼女がアメリ カの大都市の総合病院に勤務していた時、母親と別れた実父に誘拐され 叔父から2年間にわたって性的虐待を受け続けた9歳の少女カッサンドラ、 「選択性無言症」が疑われる4歳の少年ドレイク、脳卒中の後無言の世界 に閉じこもった82歳の女性ゲルダ、およびその家族との数ヶ月間の交渉 が書かれている。いずれも「めでたしめでたし」とはいかない複雑なケ ースでありながら、一人のセラピスト(教師・心理学者でもある)が通 常のコミュニケーション手段としての「ことば」を持たない人々に何を 為し得たのか、為し得なかったのかが詳しく語られる。

以心伝心をコミュニケーションの最高の形と見なす日本語文化から見れ ば、あくまでもことばによって人の心の奥に分け入ろうとする療法には 俄に受け入れがたい部分もある。だが見えない部分に光を当てるのがこ とばの力だとすると、ヘイデンの愚直なまでの取り組みに光明を見いだ す人々が後を絶たないのも頷ける。そして攻撃的な、虚妄の、あるいは 一見脈絡のない言語表現の彼方には必ず「家族の問題」が横たわってい ることに、読み手は一様に慄然とした気分になるのではなかろうか。

ヒトは心の問題を避けて通れない。それは万国共通だ。心の傷、家族の 病から解放された民族はまずいない。ヘイデンの作品が多言語に翻訳さ れ続けるのは、その痛みにつける特効薬がないことの証明かもしれない。 それにしても「トリイ・ヘイデン読書感想文コンクール」に寄せられる 作品はどんなものだろう。優秀作品が英訳されて作者の元に届けられる のかどうか。「霧のなかへ、私も」とこの本を我がこととして読み、思いを書き 連ねる大勢の読者の姿が目に浮かぶ。

配信後、一部加筆修正。Keiko

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翻訳読書ノート21

「直喩としての活火山」

10/3/2005

2004年末にスーザン・ソンタグの訃報を聞いた時、やはり癌かと胸が疼 いた。活発に行動し、状況と関わり、鋭い批評精神を表明し続けた作家 の71歳の死は早すぎる。折しもスマトラ沖地震による津波の報道合戦が 続いているところだったので、写真の持つ多義性について多くを論じた ソンタグならどのような反応をしただろうとの思いが消せない。『他者 の苦痛へのまなざし』(みすず書房 北條文緒訳 2004年)からは、密 かにスペクタクルを期待する心理へ厳しいことばが斬り込んでくる。

一方『火山に恋して』(富山太佳夫訳 みすず書房 2001年)で、小説 家ソンタグは読者を存分に楽しませてくれる。フランス革命期のナポリ を中心に、実在した英国公使夫妻とネルソン提督をモデルにした登場人 物は、大胆不敵な行動様式とマニアックな性癖で、過剰な情熱をいやと いうほど披瀝する。その背景で絶えず火を噴き溶岩を溢れさせているヴ ェスヴィオス火山は、ロマンスの隠喩ならぬ直喩だ。イギリス公使「カ ヴァリエーレ」の蒐集と火山の偏愛、奔放な二度目の奥方の破天荒な振 る舞い、そして「英雄」の彼ら二人への執着。人々をとりまく時代の喧 噪は活火山そのものとして描かれる。ソンタグは惜しむことなく華麗に 歴史の舞台を演出し、読者を熱狂に巻き込んでしまう。むろん波瀾万丈 の物語の底には、現代史にまで通じる作家の冷徹な観察眼がはっきり見ひ らかれている。

『この時代に想う/テロへの眼差し』(木幡和枝訳 NTT出版 2002年)、 『良心の領界』(同 2004年)でソンタグの語る緻密で厳格に定義され た批評のことばは、曖昧さを許容しない正確さでアメリカの紛争地帯へ の介入と無関心を、また戦争に対して個人がとりうる立場を分析してい く。実は対極的なものに見えて小説で示された放縦とも言えることばと、 批評のことばは乖離したものではない。どちらも沸き返る人間の情熱と 残忍さの実態を直に見据えて発せられたものであることは明瞭である。 日本で行われたシンポジウムでの通訳も含めた木幡と饒舌な富山の訳業は特に、ソンタ グの本領を伝えるものと思う。今後ソンタグの仕事をめぐる内外の書が 相次ぐことだろう。

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翻訳読書ノート20

「トルコの紅に魅せられて」

25/12/2004

和久井路子氏は『わたしの名は紅』(オルハン・パムク著 藤原書店 2004)をトルコ語版原著から日本語に翻訳することで、17世紀初めのオスマン・トルコ帝国を直接我が国に届けた。原作者パムクは1952年生まれの現代作家である。彼が題材とした当時の細密画師たちの直面する東と西の文化の出会い、宮廷と市井に繰り広げられる人間社会の詳細、また男性と女性、大人と子ども、親子関係など、多様な要素に沸き返るこの作品が、翻訳者自身の努力で我が国に紹介されるに至った経緯は特筆に値する。

『わたしの名は紅』は小説ではある。しかし、物語の手法は類い希なものだ。全59章には名人を含め幾人かの主要な細密画師、死者、殺人者、画師エニシテの娘シェキュレ、彼女の二度目の夫となる画師カラなどの人物のみならず、犬、木、馬、金貨など画題となるもの、さらには死、「紅」、悪魔など細密画師たちに大きな影響を与える概念、精神といったものまでもが「語り手」となって読者の前に登場する。あたかも、西洋絵画の「遠近法」から自由であった古のトルコの細密画がそうであるように、独特の位置関係を与えられた各要素はそれぞれに語る声を持っている。一見バラバラでありながら、互いが互いを照らしあい全体として一つの世界を描き出す。幼馴染みシュキュレとカラの抑制と功利と情欲の交差する婚姻譚が、多声の重なりによっていや増しに個人の運命を超えたものへと変化していくダイナミズムは、西欧的近・現代小説にはついぞ見かけぬものであろう。個人の署名、個人のスタイルを超えた芸術が確かにあった時代とその崩壊を、幾多の声が説いていく。

世界史の年表に閉じこめられない現在に至るトルコの人々の価値観、生活、伝統作法などを一冊の書物がどれほど豊かに伝えうるか、『わたしの名は紅』は端無くも示しているように思う。百科全書的な小説、と言うべきかもしれない。不可思議なものと捉えられがちなイスラム世界への扉を、この小説の翻訳が一つ確かに開いたと私は思う。

配信後、一部加筆修正。Keiko

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翻訳読書ノート19

「生きて証しすること」

2/12/2004

頑迷な因習に苦しむ人々はどこにでもいる。皇太子妃が世継ぎとなる男 子を出産しないと責められるのは、今に残るこの国の因習の証と言えよう。 性別による足枷は重い。「負け犬」「勝ち犬」などと軽妙なスタンスで 人々の固定観念を揺さぶる言説が世に踊る一方、因習と自我との葛藤に 悩む人々は後を絶たない。

白い仮面の女性が日本のマスコミに登場したとき、奇異の目は向けられ てもどれほどの共鳴と理解が呼び起こされたか不明だ。しかし『生きな がら火に焼かれて』(スアド著 松本百合子訳 ソニーマガジンズ 2004) には、因習が無力な女・子どもを傷つけ殺し続けている現状が克明に記 録されている。スアドという仮名の語り手と、彼女が家族の手で「名誉 の殺人」の名の下に焼き殺されかけたところを救い出したスイスの人権 擁護組織SURGIRの活動家ジャックリーヌの証言は、いわゆる「文明国」 に土俗世界の深部を突きつける。未婚女性の性交渉は死に値し、家父長・ 男兄弟の家庭内暴力は公認されている。孕んだ娘を義兄が殺すことに両 親は同意する。その一方、スアドは父に抑圧される実母が愛人と密会す る現場を目撃してもいる。理の通らない世界で死の淵までいったスアド が、極限状態で出産した赤ん坊と共にスイスに搬送されてから心身の蘇 生に要した歳月--この本を出版することができるようになったときまで --は20年近くに及ぶ。

「人権」「人格」という概念は特権的な国々の幻想かもしれない。ひと たび戦争となればそんなものなど敵には存在しなくなる。はじめ、スア ドの生まれ故郷シスヨルダンという地名を私は認識できなかった。それ がパレスチナ人とユダヤ人が対峙するヨルダン川西岸を指すと知ったと き、故アラファトの顔が脳裏を過ぎった。大きな戦の陰には無数の小さ な戦が続いている。それは我々とは無縁の彼岸の火事なのだろうか。中 東からスイスへ、そして日本へ、戦を生き延びた者の声は鋭く言語の壁 を越えて、現存する力なき者の受難を伝える。此岸にも呼応する痛みや 苦しみのないわけがない。

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翻訳読書ノート18

「若い旅路」

16/10/2004

若者の無鉄砲な旅には危うさと可能性が共存している。一歩間違えば落 命やむなしだが、幸運が重なればとんでもないところまで行ける。「幸 運」は旅行者自身の行動力と人間的な魅力が引き寄せるものであること も見逃せない。映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』公開に合わせ て「増補新版」の出たエルネスト・チェ・ゲバラ著『モーターサイクル 南米旅行日記』(棚橋加奈江訳 現代企画室 2004)と、旅の同行者で あるアルベルト・グラナード著『トラベリング・ウィズ・ゲバラ』(池 谷津代訳 学習研究社 2004)を併せて読むとそのことが実感できる。

キューバ革命の雄にして反政府活動支援に潜入したボリビアで処刑され たチェ・ゲバラは、ひどい喘息持ちの医学生だったことがこの二書に余 さず描かれている。ゲバラとグラナードが1951年から52年にかけてアル ゼンチンのブエノス・アイレスからベネズエラのカラカスまで、最初は 中古オートバイで、後はトラック・船舶・列車・筏・丸木船・水上飛行 機を乗り継いでヒッチハイクして駆け抜ける様子は、南米大陸縦断とい うダイナミックな背景に知的好奇心と大らかな人間性の裏付けを得て、 類い希な青春旅行記をなす。旅のあとアレルギーについての論文を書い て医学部を卒業したゲバラ。ベネズエラに留まりハンセン病治療・研究 の専門家としての道を歩み始めるグラナード。二人は特権性を十分自覚 しながら南米奥地の人々の暮らしや自然を科学者ならではの眼差しで観 察している。

二人の旅が異なる個性の相互補完の好例を示すように、この二冊も同じ 役目を果たす。24歳のゲバラは洞察・直感・行動力に優れ、30歳のグラ ナードは実務・調整・緻密さに力を発揮する。二人とも陽気なラテン気 質の好漢で名サッカープレイヤーであることなど、両書を併読すること でその全体像が浮かび上がってくる。若書きの新鮮さは切ないほどだ。 映像の魅力に触発され、この二書を手がかりに、世界の仕組みに開眼し ていく日本の若者たちが現れるのではないだろうか。少し分かりにくい ところもある棚橋訳ではあるが、ゲバラの若さは何より眩しい。

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翻訳読書ノート17

「ティーンズのために」

17/9/2004

人の感受性が最も強い時期(多くはティーンエイジャー)の少年少女が 主人公の作品は「ヤング・アダルト小説」とか、「ジュブナイル小説」 と呼ばれている。すっかりご無沙汰していたそのジャンルのものを最近立て続けに読んで しまった。イギリス人作家アレックス・シアラーと、日本語翻訳者金原 端人コンビの魅力的な本である。本物のチョコレート色をした『チョコ レート・アンダーグラウンド』(求龍堂 2004)、プラスチックカバー が少女の影を覆う『13ヶ月と13週と13日と満月の夜』(同 2003)、そし て底なしの青空色の『青空のむこう』(同 2002)。どれも胸を突く美し い装丁で作られている。手に取ると本が特別な宝物のように思えてくる。 この中に詰まっているものはなんだろう、と。

『青空』は交通事故死した少年幽霊が家族に決別を言いにあの世から戻 ってくる話。『13ヶ月』は魔女に体を乗っ取られた少女たちの身体奪回 奮闘物語。そして『チョコレート』はチョコレート禁止令を出した独裁 政党打倒の解放闘争談。荒唐無稽といえばそれまでだけれど、一旦読み 始めたら止められない筋立てに愛すべきキャラクターが活躍する。奇跡 も魔法もありのファンタジックな要素は色濃いが、細部構築はイギリス 人らしいリアリティーに富んでいる。大人でも思わず引き込まれてしま う。ティーンズならおそらくもっと。こんな世界に心を遊ばせられる時 間はとても贅沢だ。ユーモアとフェアネスの精神が全編に漲っている。

現世では子どもたちの受難が続く。テロリストは子どもたちを学校の体 育館で殺戮し、戦火に逃げまどう子ども、難民となる子どもは絶えず、 一見平和なこの国でも無惨な殺人の犠牲になる子が如何に多いことか。 彼らの無念は埋もれたままだ。そんな世の中に、人間の尊厳をさり気な く面白く誠実に語ることばがあっていい。国境おかまいなしに、世界に 行き渡るといい。若い心の襞をよく理解する翻訳者に感嘆。年若い息女 の文学賞受賞譚ばかりが一時話題を独占したが、この父の仕事を見よ。

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翻訳読書ノート16

「象徴の迷宮」

13/8/2004

『ダ・ヴィンチ・コード』上・下(ダン・ブラウン著 越前敏弥訳 角川 書店 2004)に捕らえられて数日を過ごした。読んでいる最中は先を知り たいという衝動に駆られて他のことは手に付かず、読み終えると角川書 店の専用ホームページ、著者のオフィシャルサイト の隅々までを閲覧し、舞台となるルーブル 美術館、ウェストミンスター寺院、ロスリン聖堂、そしてダ・ヴィンチ の作品画像を飽かず眺め、しばし「ダ・ヴィンチ・フリーク」となって 迷宮をさまよい歩いたと言うほかない。

確かにこれは魅惑的な本だ。キリスト教に詳しくない人間も充分ミステ リーとして楽しむことは出来るが、もし僅かでもキリスト教に通じ、キ リスト教文化の歴史に関心を持つ読者であれば、何世紀にも亘って人々 が「信じ込まされてきた」神秘の解明という迫真のスリルを味わうことに なるだろう。その意味では「聖杯」の象徴するものは何かという問いも、 「聖杯探求」の情熱も読み手によって非常に異なるものとなる。

正直なところ、私は象徴の謎解きと追いつ追われつする登場人物たちの 物語に夢中になりながら、彼らの「動揺・驚嘆・感激」に同調できない 冷めたところがあるのを自覚していた。物語の最後に至っても遂に満足 すべきカタルシスを経験したとは言い難いのである。周到な設定とカト リック教会をめぐる博覧強記の細部構築に圧倒されながらも、人間心理 の複雑さが同じほど書き込まれているとは思えなかった。狂言回しとな るハーヴァード大学宗教象徴学教授ロバート・ラングドンよりは異形の 殺人者シラスに惹かれたほどだ。

それでも尚、小説という器の可能性に私は目を見張る。如何に優れたも のであれ象徴解読の学術論文を世界中の一千万人にも及ぶ人々が読むだ ろうか。物語の中に溶かし込まれた時、キリスト教徒も異教徒も改めて 神秘の前に引き寄せられるとしたら、ことばの提示方法と人心掌握の謎 の幾ばくかが『ダ・ヴィンチ・コード』から見えてくるように思えてな らない。原書出版から一年余りで日本語訳が出せるその素早さにも敬意 を表しつつ。

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翻訳読書ノート15

「出口を求めて」

23/7/2004

桐野夏生の『OUT』は1997年の原作出版から6年目に英語版OUT (Stephen Snyder 訳 講談社インターナショナル 2003年)が出て、 2004年度米国のエドガー賞ノミネート作品として再び脚光を浴びる こととなった。この戦慄すべき作品は英語によくなじむ。

果たしてどれほどの数の英語版読者がいるのか今は分からない。受 賞を逃したことを残念がる記事もあちこちで読んだ。しかし、桐野 のスタイルは言語の壁をものともしないだろう。このような形で日 本の女の姿が世界に披露されることに眉をひそめる向きがあるかも 知れないが、OUTに漲るパワーは凄まじい。深夜労働で製造され るコンビニ弁当、夜勤を引き受ける女たち、外国人労働者、サラ金 業者、歌舞伎町に群がる中国人男女、ヤクザ、渋谷界隈を浮遊する 援交女子高生たち、そしてなにより東京西郊の住宅地に潜行する女 たちの「死体処理ビジネス」という神をも恐れぬ奇想。彼ら登場人 物をつなぐ「金」と「孤独」。メガロポリス・トーキョーの負の部 分がこれでもかと、それこそ幕の内弁当のように詰まっている。

小説は時代も土地も映す鏡だ。英語版を読みながらその巧みさに舌 を巻いた。東京西郊には、茫漠とした平野の林や田畑が急速に宅地 化され、都市で働く人々の住まいを供給しつつ互いの結びつきはい かにも希薄であるようなうらさびしい風景がある。一歩間違えば見 かけの繁栄から脱落することはいとも容易な社会の中で、何ら経済 的基盤も精神的拠り所も持たぬ女たちが出口を求めて足掻いている。 物語の主人公 Masako Katori が挑む孤独な戦いは非常にローカルな ものでありながら、同時にユニバーサルな現代人の姿を体現しても いる。

Stephen Snyder は村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』、柳美 里の『ゴールド・ラッシュ』の翻訳者でもある。現代日本文学に達 意の翻訳者が存在することの幸いを思った。内にこもることを止め て外へ向かう時、従来の「純文学」と「大衆文学」などという括りか ら日本の小説が解き放たれるるのではないかという期待を強く抱かせ る作品に出会った気がしている。

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翻訳読書ノート14

「日本と世界の距離」

25/6/2004

村上龍の『イン ザ・ミソスープ』英文版(ラルフ・マッカーシー訳 講談 社インターナショナル 2003)を読んだ。今夏の映画公開を前に新装(日本 語)版が店頭を賑わす『69 sixty-nine』で大いに笑った後だった。切なく も輝かしい1969年の佐世保から、一気に30年後の新宿歌舞伎町の夜へ。 長崎弁から無国籍英語へ。片や<笑い>、片や<サイコ・スリラー>と 手法は違っても、作者が読み手を惹きつける強烈な力業は通底している。

海外の読者にはどのように受け止められているのかネット検索してみると 『イン ザ・ミソスープ』英文版は世界中の1224作品を批評するサイト、 “the Complete Review” では「発想の妙はあるが筋立ては荒唐無稽」として酷評(ランクB-)されて いる。またそこから辿れるいくつかの新聞書評欄では賛否相半ばしている のが分かる。いずれも従来の歴史・伝統を色濃く伝える日本作品にはない 世相・風俗への大胆な切り込みには快哉を送りつつ、提示されるビジョン がニヒルで空疎だと失望を述べてもいる。同姓だが無縁のハルキ・ムラカ ミとリュウが如何に異なるかを解説するものもある。全面的賞賛にはほど 遠くとも、紛れもない同時代の作品として率直な反応を引き起こしている ことは確かだ。

『イン ザ・ミソスープ』に描かれる「内にこもる日本」がFrankという他 者に象徴される「外気」に触れた時の脆弱さや、Kenji という言語・文化 の仲介者を通して検証される様を英語でたどると、この汚辱の中にわが国 の現実がよく凝縮されていると感じる。英語版には翻訳不可能な日本語が 多数混じる。Bon-no(煩悩)論争を始め、日本語をそのままに投げつける 不敵さは、他国の読者に相当不可解なインパクトを与えるのではないだろ うか。ただ「味噌汁」のなんたるかも知らない人々には、この題名の含意 が伝わるかどうか怪しい。しかしいつもながら現実世界での驚愕すべき事 件の数々が既に村上作品の中にあったことを思うにつけ、そもそも歌舞伎 町に日本の表象を読み解こうとするこの作家には日本と世界の距離を超え ていく軽快さを感じる。海外での忌憚ない批評に晒されることから日本の 小説が鍛えられるだろうことは間違いない。

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翻訳読書ノート13

「語る人、聴く人」

29/5/2004

読むことに加えて読書に「聴く」楽しみが加わるとどうなるだろう。一冊 で二度楽しい、いや「三倍楽しむ」を謳い文句にした本『ナイン・インタ ビューズ 柴田元幸と九人の作家たち』(柴田元幸訳・編 アルク 2004 年)では、現代作家のインタビューを英語で読み、翻訳と解説を日本語で 読み、おまけに作家と翻訳者の対談をCDで聴ける。多産かつ気鋭の翻訳家 柴田元幸は、自ら手がけた作家たちを訪ね、作品に関する質問を繰り出し、 彼らをして存分に語らしめる。九人の中には、漫画家アート・スピーゲル マンもいれば、イギリスから来日したカズオ・イシグロもいるし、電話イ ンタビューで参加するポール・オースターもいる。(但し九人目の村上春 樹だけは日本語インタビューなので声は聴けない。)

この本を非常に面白い試みだと思う理由は、翻訳家の積極姿勢にある。彼 はいわば影武者の装束をかなぐり捨てて読者の前に飛び出し、「声」をもっ て問いかける一人の批評家ともなる。対訳を供するのは仕事場を公開する に等しい。以前から『翻訳夜話』(文春新書 2000)でも柴田の翻訳に対す る自負は公にされてきたが、この度はさらに一歩進んだ。しかしながら翻訳 者を介してのみ異国語の世界に認知されうる作家たちに、柴田はどこまでも 「聴き手」の姿勢を崩さない。それはあくまでも「仲介者」であることを引 き受ける者の語り口だ。彼の声は一般読者に向かう時教師のトーンを帯び、 実作者に向かう時弟子のトーンを帯びる。

この本を傍らに、ポール・オースターのエッセイ集『トゥルー・ストーリー ズ』(柴田元幸訳 新潮社 2004)を開くと翻訳家は姿を消し、そこには希 代のストーリーテラーが現れる。「信じられないような本当の話」を語るオ ースターは柴田の声がなくては存在しないのに柴田の声はオースターに明け 渡される。われわれが聞くのは果たして誰の声なのか分からないほど透明に なった時、柴田の本領が最高に発揮されていると言う他はない。それが翻訳 者の存在証明になる。

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翻訳読書ノート12

「純愛の衝撃」

20/4/2004

イラクでの戦争にじわじわと深く関わり始めた日本が「邦人誘拐」「解 放」と一喜一憂する一方で、世界情勢とは関わりのない幻の王国が多く の人々の意識の中に築かれている。玉座に君臨するのは「純愛」と呼ば れる感傷である。バイオレンスとも、セックスともドラッグとも無縁の 領土だ。

ベストセラーは揶揄の対象にもなり、驚異でもある。『冬のソナタ(上・ 下)』(キム・ウニ/ユン・ウンギョン著 宮本尚寛訳 NHK出版 第14刷 2004)は韓国のテレビ番組の所謂「ノベライゼーション」だから、余韻を 楽しみたい視聴者向けの出版だったに違いない。予め与えられた登場人物 のイメージ、周知の展開、解かれた後の謎。それでも求められ続ける書籍 の魅力とは何か。映像が書きことばに定着する時、読者は虚構への本格的 な参入を許される。改めて想像力が刺激され、幾度でも新たな感情移入の 機会が与えられる。韓国産の物語でありながら、この作品には土着的風俗 は殆ど無いに等しい。いつ、どこの、誰に起こっても構わない初恋談義の プロトタイプである。

揃って1970年代生まれの両作者と訳者が、彼らより10歳も20歳も上の世代 からごく若い世代までを虜にしている。おそらくその殆どが女性である読 者層は、第二次世界大戦以前の日本と韓国の歴史的経緯の実情を知らず、 したがってかつての偏見からも自由である。「無垢」(ないし「無知」) が「純愛」に飛びつく--これこそ「初恋」のエッセンスだろう。愛の辛酸 をなめるのはその後の過程にある。初恋を手放さないことは甘美だが苦悩 の始まりでもあることをこの作品自身がよく示している。主人公たちの親 世代の「過ち」が子ども世代に及び、その克服が仄めかされるというプロ ットも実に示唆的ではある。非西欧的、儒教的、禁欲的価値観が現代の日 本に与えるインパクトは意外に強かった。韓国語からの翻訳作品がこれか ら日本の出版市場に続々と「侵出」してくることは想像に難くない。

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翻訳読書ノート11

「存在の重力」

18/3/2004

90年代初めミラン・クンデラの作品が次々に翻訳出版された頃、私は 片端から買い込んで書棚に収めそのまま10年以上経ってしまった。今 初めて読むクンデラの魅力に、これまでの空白を後悔している。東京 オリンピックの「名花」と謳われた体操選手ベラ・チャスラフスカが 私の知る唯一のチェコスロバキア人の名だったこと、彼女が90年代に 再来日した時の加齢した、しかし相変わらず高嶺の花の雰囲気を漂わ せていた様子が、クンデラの作品を読み進むうち思い出されてならな い。チェコとスロバキアに分かれた国々について殆ど何も知らないで きたことに愕然としながらも。

クンデラは心と身体、体制と個人、嘘と真などの相克と不条理を飄々 と描き出す。「キッチュ(俗悪)なもの」が、短編集『微笑を誘う愛 の物語』(千野栄一・沼野充義・西永良成訳 集英社 1992)にも、 『冗談』(関根日出男・中村 孟 共訳 みすず書房 1992)にも、『存 在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳 集英社 1993)にもふんだんに 出てくる。クンデラを読んでいると「人間の命は地球よりも重い」と いった常套句が消し飛び、「軽さ」が前面に躍り出てくるのに気付く。 けれどもそれが単なる軽佻浮薄な弛緩した笑いとは別物の、重さの陰 画としての軽さであると念を押すには及ぶまい。ヨーロッパの歴史 が産んだ恐るべき軽さなのだと。

クンデラの洗練された技巧が、底知れぬ闇の奥から痛ましくも滑稽な 人間の本性をたぐり寄せるところを私は驚嘆を持って見つめ、同時に 訳者たちがチェコ語から日本語へテキストを生まれ変わらせる妙技に も驚嘆する。技がそこに「存在」することすら意識させぬ事実と共に。 20世紀から引き継いだ戦火の数々が今世紀に持ち越され、いまだに燃 え続けている世界を小説はどのように書き留めうるのか、クンデラが 示すものは計り知れない。日本語からチェコ語へという逆のコースを たどるものがあるなら、その重さ・軽さは如何ばかりかと想像してい る。

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翻訳読書ノート10

「彼女の物語」

19/2/2004

歴史は多くの場合、文人、武人、政治家、科学者、芸術家などの別を問 わず、男性の視点から記録されてきた。彼の物語(his story)、故にヒス トリー(history)として。ここにとびきり活きのいい女の物語が登場した。 『リビング・ヒストリー ヒラリー・ロダム・クリントン自伝』(酒井 洋子訳・早川書房 2003)である。彼女はあくまでも彼女個人が体験した、 アメリカ合衆国大統領夫人(ファーストレディ)という「象徴的役割」 を担うに至る道のりと、その実態と、そこから開けた未来への展望をこ の一冊の本の中に存分に書き込んでいる。

これはニューヨーク州選出の上院議員となった、アメリカの一政治家の 主観的な自己アピールだろうか。剛胆なアメリカ人の自己正当化と自画 自賛の書だろうか。いや、そうではないと思う。夫ビル・クリントンが ホワイトハウス実習生モニカ・ルゥィンスキーとの間に「不適切な関係」 を結んだとして弾劾裁判にかけられた時の状況をヒラリーは「妻として はビルを絞め殺してやりたかった。が、彼はわたしの夫というだけでな く、わたしの大統領であり、何よりも、彼はわたしが続けて支援したい と思うようなアメリカと世界の指導者だった(p.649)」と表現する。 このような物言いに辟易するとしても、大らかな笑いと共に惹きつけら れるとしても、この物語の精華はきわめて開放的な女性の率直で忌憚な い叙述にあることだけは間違いない。現代の世界にアメリカがどう関与 するか、アメリカ国内はどのような状況にあるか、彼女は内側から事細 かに語る。

大統領を支える役割を任期満了で終え、これから独自のキャリアを積む というタフな女性が二十一世紀に何をなし得るか。「発展途上国」「産 業先進国」の別なく衆目の的であり続けるヒラリー・ロダム・クリント ンの声を、「訳者は役者だ」と言い切る酒井洋子は生き生きと日本の読 者に届けた。目先の好悪にとらわれず、先ず人間を見よと彼女たちに焚 きつけられた気がする。

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翻訳読書ノート9

「モダン」を超えて

23/1/2004

それは続けざまに1000ページ以上読んでもどこかに発してどこかへ至る 過程ではなかった。『ある男の聖書』(高行健Gao Xingjian著 飯塚容 訳 集英社 2001)と『霊山』(同 2003)に渦巻く言語の奔流は、欧米 系文学の律儀な約束事には収まらない。この在仏の自発的故国喪失者 (exile)にして中国語で書き続ける作家に「モダニズムの系譜」といっ た20世紀的呼称が当てはまるとも思えない。

『ある男の聖書』(原著出版1999年)が「自伝的」というのは頷ける。 革命寸前の中国に生まれ、毛沢東率いる共産主義国家に育ち、文化大革 命の嵐をくぐり抜け、やがて国からも同胞からもあらゆる束縛から逃れ 出ることで自己を保とうとする「作家/芸術家」の遍歴が語られるとい う点においては。しかしこの旅に終わりはない。「霊山」を目指して放 浪する作家の物語(原著出版1990年)はさらに壮大な規模で古代から現 代の中国まで、自然、人、文化を俯瞰しようとする。個人を超えた魂の 記録とでも呼ぶしかない。これは言語表現という行為を自問し続ける 「メタ・小説」でもある。

国家という仕組みへの懐疑、文革時代の理不尽な施策批判、為政者と人民 の確執の活写、繰り返される濃厚な性愛描写などが、高行健の作品を中華 人民共和国が発禁処分にする理由だろう。国外からしかこのようなものが 生まれ得ないところに、現在の中国の状況は推察できる。しかし中国大陸 から今後出てくるものが、産業・科学技術・巨大市場などばかりではなく、 数千年に及ぶ歴史の蓄積から醸造される言語芸術を含むものに違いないこ とは予感できる。高行健には2000年度ノーベル文学賞受賞作家というレッ テルもほんの付け足しのように感じられてならない。飯塚容の闊達な訳業 に、我が国の外国文化受容の根元に中国があり続けたことを再認識し、漢 字文化が相互にやりとりしてきたものの意味を改めて熟考したくなる。

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翻訳読書ノート8

「ことばの艶」

24/12/2003

リービ英雄は万葉集のことばは新しいという。『Man'yo Luster 万葉集』(英訳・リービ英雄 写真・井上博道 アートディレクション・高岡一弥ビエ・ブックス 2002年)は後付に「『万葉集』についての学術書ではありません」と書いてある。確かにこれは古典の解読書ではなく、対訳本でもない。万葉集の歌を英語で表し、日本語の原文で示し、口語訳(講談社文庫、中西進著『万葉集 全訳注原本付』を底本とする)を付し、収録したそれぞれの歌のために撮られた写真を配した分厚いペーパーバックである。一首に英語一ページ、日本語一ページ、写真一ページ(時には見開きで二ページ)という贅沢な編集だ。

リービ英雄は英語圏から日本語のためにこの国に移り住み、かつ世界各地を逍遙し、中国語にも通じる作家である。彼の書く英語版と、中西の現代日本語散文版を相次いで読むと、それぞれの万葉集原文との距離がそう懸け離れていないことがよく分かる。平明な英語詩の方がむしろ詩歌としてのエッセンスをよく受け継いでいる場合が多い。それは意訳などではなく、忠実な直訳だ。リービ英雄の英語は万葉詩歌の持つ骨太でしかも豊かな叙情性をストレートに伝えている。彼はそれが画像の力と合わさって真価を発揮することを知悉していた。日本人ですらもう滅多に見ることのできない情景を井上の作品が提供し、ことばと写真を(文字フォント、レイアウトも含め)高岡のアートがつないで跳躍させる。

『Man'yo Luster 万葉集』の画像に写る殆どが奈良近辺の風景であり、四季折々の山河、寺社、動植物でありながら、そこに投影されるのが人の心であることに読み手は今更ながら気付かせられる。長くこの国のことばの伝統を担ってきた和歌は、英語を通じて新たに器としての堅固さを示し、依然として有効な心情表現の方法であること証している。このように艶のあることばを擁してきた日本語とこの国の風土へのリービの眼差しに私の胸は高鳴る。英語も日本語も美しい。

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翻訳読書ノート7

「マリーの情熱」

26/11/2003

マリーという女の情熱に圧倒された、などと書くと如何なる小説のことかと問われそうだ。生きた、愛した、仕事した、このマリーは科学者である。『マリー・キュリー1, 2』(スーザン・クイン著 田中京子訳 みすず書房 1999年)は二十世紀初頭の物理学・化学の発展に抜きんでて貢献した女性の生涯を躍動的に描いている。最初の伝記作者、マリーの次女エーヴには触れ得なかった彼女の二度目の恋と破綻、そして科学者生命をも脅かした大スキャンダルのことも含めて。それにしても、呆れ果てるほど当時のパリはこのポーランド女性に過酷だった。妻帯者ポール・ランジュヴァンとの恋愛糾弾のみならず、ノーベル賞受賞さえ資格不足だと女性に門前払いを食らわせ続けるフランス学士院の偏狭さはどうだろう。そういった攻撃、拒絶、非難をくぐり抜けて蘇るマリーは、現代の言葉で言えば「サバイバー」と呼ばれるのが一番相応しい。

しかしこの伝記はマリーの個人生活や喜怒哀楽だけに明るいのではない。それ以上に詳細かつ綿密なのは、一科学者の業績とそれに連動して繰り広げられる科学・技術の劇的展開の現場を報告することにおいてである。その詳述を丹念にしかも闊達に日本語にした翻訳者の優れた技量にも触れないではいられない。科学者の生涯を描くのにその仕事の意味を十分理解・伝達できなくては始まらない。この翻訳者は原作者の誤認をも後書きで指摘し、マリーへ肩入れしすぎの点をさり気なく批評してくれる。

女性と科学が正面から出会ったのも二十世紀の大きな遺産と特記したくなる。マリーが自ら発見したラジウムの放射線で体をむしばまれていく様子は、科学・技術の「発展」が福音とも災厄ともなる実態をよく伝え、マリーの名誉回復に最も役立ったのが第一次大戦での医療活動だったことも歴史の皮肉として記録された。マリーの情熱が、翻訳されたこの伝記作品を通じて日本でも記憶され続けるのは確実だろう。

配信後、一部加筆修正。Keiko

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翻訳読書ノート6

文庫になった『ユリシーズ』

24/10/2003

文庫版の『ユリシーズI・II』(ジェイムズ・ジョイス著、丸谷才一・永川玲二・ 高松雄一訳、集英社文庫ヘリテージシリーズ)が出た。朝、満員電車で広告を見 て夕刻本屋に立ち寄ると、平積みのIはIIよりだいぶ減っていた。バラして買う 人がいるんだ!全四巻が揃うのは2003年12月末とか。

2004年6月16日は「ブルームの日」から丁度100年目。アイルランドのダブリンで は前後四ヶ月間お祭り騒ぎになるらしい。(ReJoyce, Dublin2004, Celebrating Bloomsday 100 サイトをご参照下さい。) ジョイスの激しい愛憎の対象、彼の全作品の舞台、"Dear, Dirty, Dublin"(愛 しく汚いダブリン)には世界中から読者が訪れる。ジョイスを愛読することにか けて日本人は他国に引けを取らない。『フィネガンズ・ウェイク』(柳瀬尚紀訳, 河出書房新社、1991)ですら翻訳してしまうジョイス贔屓の言葉好き。改訂が重 ねられた『ユリシーズ』を持ち歩けるとは有り難い。

電車に揺られながら読むブルーム氏はさらに馴染み深いキャラクターに感じられる。 どの章から読み始めても構わないような作品だから、その時の気分で「テレマコ ス」を、「カリュプソ」を、「ナウシカア」を。物語の時刻に合わせて読んでも いい。そして【訳注】の詳細なこと。作家と学究のコラボレーションは痒いとこ ろに手が届く。実に各巻の三分の一は【訳注】だ。

あらためて「なんて面白い小説だろう」と思う。下卑たことも高尚なことも一緒くた。 かつて論文制作のために青息吐息で読んだ日々が蘇る。英語の語彙の大方を私は Ulyssesから学んだ。今度は楽しみながら読む『ユリシーズ』の豊饒に感嘆する ばかりだ。今なら分かる。あの頃、Ulyssesは繰り返し読んで初めて賞味できる 筈だと思った。その通りだということを文庫本が証明してくれている。

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翻訳読書ノート 5

「ダロウェイ夫人再び」

13/8/2003

映画『めぐりあう時間たち』は満席だった。最前列右端の席からは、女優 たちの顔がどれも歪んで見えた。それでも全編に漲る清新な緊張感とアン ニュイを湛えた悲愴感は十分に伝わり、劇場を出る時私はオリジナルサウ ンドトラックCDと、マイケル・カニンガム著”The Hours”の翻訳版『めぐ りあう時間たち/三人のダロウェイ夫人』(高橋和久訳 集英社)を買い 求めていた。カニンガムはバージニア・ウルフの原作を、異なる時代を生 きる三人の女たちの「時間」へと解体・統合して見せ、1960年生まれのス ティーヴン・ダルドリー監督がそれを映像化した。1998年夏に岩波ホール でヴァネッサ・レドグレーヴ主演の映画『ダロウェイ夫人』が上演された 時にも連日の満員御礼だったのを思い出す。この二つの映画の盛況ぶりは 示唆的だ。

ウルフの意識の流れを追うのはたやすいことではない。錯綜するイメージ の連鎖と入れ変わり続ける時間軸、ある人物の意識が突然別の人物の意識 へと飛ぶ際の不連続。きわめて重層的なテクスト。「瞬間の意味」が問わ れ続ける。ところが映画に描かれる心象風景は、現代の女性たちが抱える 焦燥・孤独・矜持などと見事なまでに直接クロスする。映画は言語テクス トの一つの「解釈」であり、「翻訳」でもあると思わずにいられない。そ れは多分に「単純化」でもあるのだが、さらなる凝縮も加わると観客の 「原作」への興味を掻き立てる。もう若くはない女性たちの極めて今日的 な心理状態と、1920年代にウルフが描いたダロウェイ夫人の近しさはどう だろう。あらためて『ダロウェイ夫人』(丹治愛訳 集英社)を読むとそ れが実感できる。直ぐに原典へと誘う端正な日本語版を持つわれわれは幸 運だ。ただ劇場で求めたパンフレットの「日本語版字幕 松浦美奈」という 文字があまりに小さいのは残念だった。ことばの仲立ちをする人の存在意 義は計り知れないというのに。

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翻訳読書ノート 4

「翻訳畑の大収穫」

9/6/2003

J.D.サリンジャー著、村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』 (白水社)出版から一月あまりたった。野崎孝訳『ライ麦畑でつかま えて』を読んだ世代は、新訳に手を伸ばさずにいられない。ところで 若い読者はサリンジャーが読みたくて新訳を開くのだろうか、それと も翻訳者に惹かれて本を手にするのだろうか。インターネット検索し てみると、ズバリ、旧訳と新訳の違いを比較しながら作品解読をして いる大学の授業がある。書評も花盛りだ。村上春樹の長い作品リスト に加わったこの訳業について、世代を縦断した話題沸騰中と言っても 過言ではあるまい。

村上春樹は現在、世界で最もよく読まれている日本人作家だろう。彼 は広く世界を旅し、文学と音楽を自在に行き来し、インターネットを 通じて読者と直接語り合い、おまけに翻訳作品が多い--自ら訳し、他 者が彼を訳す--という点でも際だっている。他のどの日本人現役作家 より、一貫して翻訳にエネルギーを注いでいることは見逃せない。 「曖昧な日本語」から遠いスタイルには賛否両論あるけれど、この度 の新訳が多くの新しい読者を獲得しているのは事実だ。作品には作り 物でない日本語が溢れている。

おそらく読者の多くは再び村上自身の作品へ向かうだろう。彼の物語 世界の場面展開にも似て、いつしか「ホールデン・コールドフィール ド」は(たとえば)「田村カフカ」へと姿を変え、アメリカの街は日 本の都市にすり替わる。レコードがCD/MDに置き換わり、公衆電話が 携帯に道を譲ったとしても、自分をもてあます若者自体は変わらない。 村上のソフトな語り口は時と所を軽々と越える。アメリカ英語の世界 から日本語の世界への転換は、野崎の時代にはこんなにもあっさりと してはいなかった。差違が魅力だったかもしれない。しかし、言語・ 文化の違いを大仰に意識させない書き手、村上春樹を育てたのは『ラ イ麦畑でつかまえて』だったのではないだろうか。

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翻訳読書ノート 3

「解き明かすことば」

23/4/2003

シェイクスピアの国はダーウィンの故郷であり、リチャード・ドーキンスの出
身地でもある。オックスフォード大学屈指のダーウィン主義者、ドーキンスの『利己的な遺伝子』(紀伊國屋書店 日高敏隆・岸由二・羽田節子・垂水雄二・共訳)は最初『生物=生存機械論』の題名で1980年に日本では出版された。そして増補改題され第二版が出たのが1991年。読み手の要求に押されるようにしてより原題に忠実なタイトルを得た。増刷され続けるこの科学書の魅力は、自然界の謎を解き明かすことばにありそうだ。当然、その訳文にも。横溢する比喩の巧みさに舌を巻きながら読むうちに、思いもよらぬ遺伝子の跳梁ぶりに驚嘆させられる。

『利己的な遺伝子』では生物の振る舞いの魅力的な具体例が、次から次に繰り出される。たとえば、別種のアリのコロニーに寄生するアリの女王が、寄主の首を切り落とす場面の描写には息を飲む。しかしドーキンスは個体を問題にするのではなく、あくまでも生物を遺伝子の「乗り物(vehicle)」や「生存機械」と見なし、遺伝子から見た生命体のありようを詳述する。例示も比喩も、そのままでは味も素っ気もない情報記号に鮮やかなイメージを与える優れたレトリックとして働く。但しこの本は所謂ポピュラーサイエンスとは異なり、些かも手心を加えない生物学講義である。それを日本の専門家たちが共同翻訳してなお、門外漢に違和感を与えない。

ヒトゲノム解読完了のニュースがメディアを賑わわせる今日、遺伝子・遺伝情報は専門家ではない人々の関心をも掻き立てて止まない。日常的に、「遺伝子組み換え大豆は使っていません」などの食品表示を目にする時代。その遺伝子の正体を「不滅の自己複製子」と呼び生命連鎖の要として提示するドーキンスの手並みを、正確無比な日本語で読ませる科学者グループの仕事は、他言語と日本語の間の架橋に留まらず、科学者と一般読者の意志疎通というさらに厄介で重要な役目を果たしている。

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翻訳読書ノート 2

「ことば選びのセンス」

5/3/2003

読者は何に惹かれて本を手に取るのだろう。時々の関心やその人の趣味、仕事の必要に迫られて書棚に手を伸ばす。先に書評を読み、人の噂を聞いて迷いもなく一冊の本を探し出す快感というのもある。それに加えて翻訳の場合特に、題名への「ことば選びのセンス」の果たす役割は大きいと思う。直訳では足りない。何もかも自国語に訳せばよいわけでもない。あるときには、訳さないことも翻訳者の優れた技となる。

『センス・オブ・ワンダー』(レイチェル・カーソン著、上遠恵子訳、新潮社1996年刊)はその好例ではないだろうか。同じ著者の『沈黙の春』も優れた命名だ。だがこの大著に引かれて、敢えて日本語にしてしまったら、失われるものもあったかもしれない。日本の読者の多くが英語に通じている現在、原題の譲れないニュアンスを題名に残す潔さは安直な片仮名ことばの対極にあるものだろう。装丁にも制作者たちのこころざしは明らかだ。THE SENSE OF WONDERとRACHEL L.CARSONという英語表記が日本語の著者名・表題・翻訳者名を上と下から挟んでいる。日本人の写真家による画像はこの作品を誠実に日本の読者へと手渡す。自然観察の奥義を説きながら、日本語の放つ香気を伝えるきわめて上質の掌編だ。海辺の情景、森林の物音、天体観測、そのどれもが人と自然との胸躍る出会いとして生涯の喜びの源泉であることをくり返す原文の日本語訳は、無駄が無く潤いに満ちている。

一度しか読まれない詩集は二度と聴かれない音楽のようなものだ。一度しか読まれない推理小説があっても良い。飛ばし読みで十分な技術マニュアルもあるだろ。だが、くり返し繙かれ、その度に新鮮な感動を与える自然科学の読み物があるとしたら、それは科学とことばとの幸福な出会いと言える。「不思議さに驚嘆する感性」は科学者と詩人が出会うとても自然な領域に違いない。本来人間の心に色分けされたジャンルはない。上遠恵子さんの丁寧な仕事がそのことを静かに語っている。

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翻訳読書ノート 1

『朗読者』と「翻訳者」

17/2/2003

翻訳者とはどのような存在だろう。私は目の前にある『朗読者』 (ベルンハルト・シュリンク著 松永美穂訳 新潮クレストブック) を見つめながら問い直す。この本を読むのはこれでもう三度目だ。初 めは夢中で何も考えずに、二度目は伏線の巧みさを確認しながら、そ して今度は細部にまで神経の行き届いた端正な文体を味わいながら読んだ。

一旦読み始めるとその都度、途中で巻を措くことが出来なくな る吸引力を備えた小説。原作の重い主題と軽快なテンポをストレス無 く読者に手渡すことに成功した訳文の故に、『朗読者』が日本の読者 を魅了し続けているのは確かだと思う。 『朗読者』が魅力的なのは、ナチスドイツの犯罪をめぐる戦後世代の 葛藤を歳の離れた恋人たちの運命に重ねた設定もさることながら、こ の作品が「ことばを読むとはどのような行為であるか」という根元的 な問いかけを含むからだ。「文盲」である苦しみを、この本を読む前 に誰が想像できただろう。黙読と朗読の違いにも読者は気付かされる。

ことばが音声を介して伝えられる時人が経験するのは、孤立した営為 である「読書」とは異なる、きわめて濃密な他者との関わりに他なら ない。優れた翻訳者に助けられて(助けられていることさえ意識せず に)日本の読者は、ドイツ流の思考と感性が衝突しせめぎ合い止揚さ れていくところに立ち会う。日本語文化の中では滅多に起こらない個 の厳しい戦いがそこにある。

私はドイツ語が読めない。これから小説が読めるくらい達者になるま でドイツ語を勉強することもおそらく出来ない。もし翻訳者がいなか ったら、私はシュリンクの作品とは永遠に出会えなかったはずだ。翻 訳者は読者と異文化の間に橋を架ける。このように堅固で質実でしか も優美な橋があるなら、人は幾度でも異世界間を行き来するだろう。 翻訳者の果たす役割は、朗読者に似ているとも思う。異言語のテキス トに「声」を与えるのは翻訳者だから。
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これから出来れば毎月、一介の読者として享受する翻訳作品について 短文を書き綴りたいと思う。英語文学に関する話題が多くなるかもし れないが、いろいろな場面で出会う作品を取り上げ、あらためて翻訳 という仕事・技の持つ意味に思いをめぐらせてみたい。

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