初出 田崎清忠主催
Writers Studios
2018年 7月 6日

散策思索 02

「英国映画へ」

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「英国映画へ」  

K.Kitada

英国在住の布施順子氏からのお知らせを読んでEU Film Days 2018を見に行った。

ヨーロッパ各国から気鋭の作品が揃う映画祭だ。リストを見回すと幸いなことに『日の名残り』(監督ジェームズ・アイヴォリー、原作カズオ・イシグロ)を見られることが分かった。東京会場は京橋交差点に近い「国立映画アーカイブ」(旧東京国立近代美術館フィルムセンター)。受付で開演30分前までに並べばチケットが買えると番号札を渡された。

銀座一丁目界隈をぶらついた後、昼食を済ませてアーカイブに戻ると沢山の人が開演を待っていて、300席はあっという間に満杯になった。2017年のノーベル文学賞受賞以来、益々イシグロへの日本人読者の関心は高い。1993年の公開当時とは違った意味で、あらためてこの映画を鑑賞したい人が会場に詰めかけているようだった。

カズオ・イシグロが『日の名残り』(The Remains of the Day)を書いてイギリスのブッカー賞を受賞したのが1989年。それに先んじる『遠い山並みの光』(A Pale View of the Hills 1982)、『浮世の画家』(An Artist of the Floating World 1984)以来、彼の作品は全て日本語に訳されこの国で愛読されてきた。とりわけ最初の二作は長崎を舞台にしていることからも、「日本人と日本について英語で書かれた作品を翻訳者が日本語にして読者に提供する」という<捻じれ>からも、比類のない興味を掻き立てるものだった。日本では、英国および世界各国の読者の受け止め方とはまた異なる関心が払われる作品といえよう。

イシグロ本人が語る「私は5歳の時に海洋学者だった父の仕事でイギリスに移り、家族とは日本語で話していたが、外では全て英語だったので、私の日本語は5歳児のままだ」という説明はよく知られている。多文化の共存する英国に、海外から移り住んだ人間は珍しくないとはいえ、育ったイングランドの街では外国人は自分だけだったとノーベル賞受賞記念講演『特急二十世紀の夜と、いくつかの小さなブレークスルー』の中で、イシグロは語っている。そのような出自のイシグロが、第二次世界大戦前後の英国貴族の館に仕える「執事」の物語をかくもリアルに(と思える筆致で)描いたことは、英国の読者にとって如何なる驚きだったろう。

先ごろ爵位を与えられたイシグロは「幼い頃日本から来た少年を寛大な心で受け入れてくれた英国に感謝する」と述べている。逆に、日本にいる人間から見ると、祖国と日本語を離れ、英国人となって英語で生きるイシグロは刮目すべき存在である。それは、人は生まれた土地の文化や言語にのみアイデンティーを求める必要のないこと、移り住んだ土地に根を張ることでその土地の文化・言語・伝統を我がものとすることが可能であるかもしれないことを体現する人物だからである。彼は作家としての立場を確立するまで一度も日本に戻らなかった。戻らずに「記憶の中の日本」を書いたことがまた彼の独特な執筆姿勢として関心の対象となってきた。日本人は英国人イシグロにとても親しみを感じている。

『日の名残り』でアンソニー・ホプキンズ演じる執事スティーブンスがひたむきに職務に打ち込む様子は、日本語で言う「滅私奉公」に近いだろう。与えられた役割に徹するがゆえに見えなくなっているもの(あるいは見ないことにする習慣)は、それが主人ダーリントン卿の「ナチスドイツへの協力」であろうと、同僚の女中頭ミス・ケントンとの間に育み得た愛情であろうと、私情を封印し続けることで職務に求められている(と彼が信じる)「威厳」(dignity)を保つ姿勢に現れる。外から眺める者にスティーブンスの頑迷さは滑稽であり、悲惨でもあるけれど、最後にミス・ケントンとの再会が彼女の家庭の事情で決別に終わるまで、本人には分からない。雨のバス停での別れ際、スティーブンスのもの言いたげな、そして諦念に溢れた表情にはえも言われぬ悲哀が漂う。言葉にならない分、遅すぎた覚醒と失ったものへの哀惜の念が彼の全身に渾然と湧き上がる。

執事スティーブンスは、エマ・トンプソン演じるミス・ケントンの率直な言動と度重なる問いかけに応じることもなかった。例えば父親老スティーブンス臨終の折にも、ユダヤ人少女たちへの無慈悲な解雇命令の折にも問答無用で彼女の懇願をはねつけ、結婚して屋敷を去ると告白し泣き濡れる彼女の真意を解することもない。鉄面皮を貫くスティーブンスという人物の造形が観客の胸に沸き立たせるのは、彼の禁欲的で余りにも無骨な姿に対する哀れみと苛立ちでなくてなんだろう。「何故分からないの?分かろうとしないの?」とミス・ケントンとともに叫びたくなる。だが、いるのだ。いや、いたのだ。こういう男は。

終演後会場を出てゆく人波に加わり、私は何やら葬列に連なっているような気がした。もっともそれは陰陰滅滅としたものとは違う。厳粛であり尚且つ爽快感の交じるものとでも言おうか。新しい主人の車を拝借してミス・ケントンに会うためイングランドの田園を旅するスティーブンスが、田舎のパブで上流階級の人間と間違われかけたとき、地元の医師が「あなたは雇われていた人ではないか」と彼の本性を看破する場面がある。スティーブンスが愚直にそれを認める潔さから受ける、あえかな瞬間の真実の煌きとでもいう爽快感。表情をほとんど変えないスティーブンスが時折見せる仮面の下の素顔。そういった微細な表情にドラマが隠されている重厚でかつ軽妙な作品を見た喜びと言っても良い。

カズオ・イシグロの原作映画化は『日の名残り』だけではない。『わたしを離さないで』(Never Let Me Go)は2005年の原作発表に続いて2010年に映画が公開された。臓器提供を目的として生み出されたクローン人間の若者たちが、運命に従いつつ己の存在と愛について苦悩する青春譚だ。その瑞々しさは奇妙で極端な状況設定の物語であるにも関わらず、むしろ、だからこそ際立つ。観る者の胸にはここでも哀れみと苛立ちが生まれるのではないか。「なぜ、あなたたちは唯々諾々と死んでいくのか?」と。そしてなお、漂う爽快感は『日の名残り』に通じる。殉じて悔いなしの精神だろうか。

陽光きらめくイタリアとも、洒脱なフランスとも、端正なドイツとも、多分ヨーロッパのどの国とも異なる英国らしさが『日の名残り』にはあるからこそ、この作品はEU Film Daysに送られてきたのであろう。その原作者がカズオ・イシグロであるのは英国の文化政策なのか。しかし、これが英国のEUの一員として最後の映画祭参加であると聞くと、葬列の比喩はあながち的外れではないのかもしれない。重厚で軽妙で瑞々しい。アンソニー・ホプキンスとヒュー・グラントを見比べながら、思わず頬が緩む。英国映画の麗しさに。

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